今われは樹の眼(まなこ)なり空中に伸びたる蝶の舌がちかづく

小黒世茂『雨たたす村落』(2008年)

春になると花の蜜をもとめて蝶があらわれる。
まず見かけるのが紋白蝶や紋黄蝶、五月になるころには揚羽蝶も見られる。
俳句では蝶といえば春季、揚羽蝶は夏季、ほかに、秋の蝶、冬の蝶、という季語もある。
蝶は蜜の匂いをかぐと、ふだん丸く巻かれている口吻を伸ばす。
ストローのような口吻を舌というのは面白いが、そういえば『蝶の舌』という題名の映画もあった。

主人公は森のなかを歩いているのだろうか。
花を咲かせる樹樹にかこまれて、自分自身も一本の樹になりきってしまった。
いま一匹の蝶が近づいてきて、蜜を吸い、受粉をたすけてくれようとしている。

樹の眼、には二重の意味がある。
ひとつには、樹の視線になっているという意味。
いまひとつは、樹の花という意味。
例えば斎藤茂吉の『赤光』にある「神無月空の果てよりきたるとき眼ひらく花はあはれなるかも」などが念頭に置かれているのだろう。
伸ばされた蝶の舌にあてられた微視的なフォーカスが、一首の陶然としたまぼろしに奇妙なリアリティーを与えている。

季節がめぐるごとに、何十年、何百年も花を咲かせつづける樹、春の訪れとともに羽化してその花に集まる蝶。
生命には実にさまざまなかたちがある。
街中で暮らしていると忘れがちだが、それはけっしてまぼろしではない。

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