百々登美子『大扇』(2001年)
初句の「ゆきたり」は、逝きたり、だろう。
そのひとは死んでしまった。
「ゆきたりと知りて」には、死からすこし時間がたっていること、また、死者との距離を感じる。
いっぽうで、この表現は、読めば読むほど深みにはまりこんでいくようでもある。
離れてしまっても心はどこかでつながっていると信じていたひとの死を、数日、数週間、あるいは数年経ってから伝え聞いた。胸が罅われるようなさびしさ。
または、近くにいて看取ったひとの死を、物理的には受け入れざるをえないことなのだが、こころはなかなか受けとめることができなかった。しかし時間を経て、その死を<理解>したのだ、というふうにも読めてくる。
いずれにしても、だいじなひとを亡くした喪失感や哀しみで身動きがとれなくなる。
そんなとき、ふいに「赤きはきもの」が意識される。
実際にあったのか、それとも記憶や想像のなかにあるのか。
どこまでも幻想的なのに鮮やかに存在する「赤きはきもの」。それが「揃へ」られている。
そのなんでもないことがなぜこんなに哀しみを揺らし膨らませるのだろう。
死者と、われと、「赤きはきもの」。
そこに、「揃へ」るというもうひとつの力が加わる。
その手は、しずかに残る愛のような存在におもえる。
ゆきたりは、おそらく江戸雪氏の読みのように「逝きたり」でいいのだろう。でも平仮名で提示されているゆえのやさしさだろうか、死ではなく「往きたり」を想起した。もしかしたら、自分の子供が養子にゆく日のことかもしれない。靴を履き始めたばかりのまだかなり幼い女の子。最後に渡そうと用意しておいた「赤きはきもの」。でも、養家への配慮からか遠慮からか、渡せずに残った「赤きはきもの」。いずれにしても心に悲しいうたですね。
木本さんの読み、心うたれます。
この歌、ほんとうに平仮名の広がりをぞんぶんに駆使した歌ですね。
コメントありがとうございました。
物語を立ててゆくような江戸雪氏の鑑賞、詰め将棋にも似た魚村晋太郎氏の鑑賞、どちらも楽しみにしています。長く続けてください。