月光の溜る机上に脚すこし開きてコンパス泳ぎはじめる

福井和子『花虻』(2011年)

「脚すこし開きて」というと、コンパスが人の体のようで、美しい。「溜る」という言葉が澄んだ水を思わせる。机上の月光のなかに置かれた細いコンパスに不意に生命が宿り、水のなかに解き放たれたような印象がある。 なぜこのような官能的な歌になるのだろうか。

 

  夕映えの去りて静かなテ-ブルに伏せ置く皿の類とわたくし

 

  濃く匂ふ百合と匂はぬ紫陽花のあはひにはつか臭(しう)あるわれが

 

同じ歌集から2首引いた。1首目は結句が意表をつく。夕映えが去り、薄暗くなったテーブルに、夕食の準備だろうか、皿などの器を伏せて置く。その皿などと同様に「わたくし」も置くというのである。人である「わたくし」まで皿のような硬質な光を帯びて静かにそこにあるようで、やはり美しい。2首目は、百合と紫陽花、2種の植物を匂いで区別し、においでいえば「臭」である「われ」をその間に置く。においという基準で花と並ぶことで、生き物である「われ」のにおいが不意に生々しく際だつ。

 

掲出歌はコンパスという物と人の体、1首目は器と人、2首目は植物と人、というように、人とそうでないものとの境界がやわらかに超えられている。そこに官能性が生まれているのではないだろうか。

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