梅雨くればふかきみどりに揺れやまぬ肌のひかりがこの国のひかり

早川志織『クルミの中』(2004年)

梅雨の季節、草や木が、若葉からたくましい葉へとその緑色をふかめる。その緑の間でヒトの肌のひかりが揺れている。そして、梅雨の時期の湿りを帯びた、あるいは汗で湿った肌が緑の間で光っているその風景こそがこの国、つまり日本なのだ把握する。肌に着目することで、ヒトの生物らしさがクローズアップされている。「国」という観念を軽やかに超え、ヒトという生物が植物の緑の間で生きているという、原初的な風景を作者は取り出して見せる。

 
  草の種子(たね)こぼれていたり「殖えながらわたしはすこし遠くへ行く」と

 

生物に造詣の深い作者には植物の歌が多くある。歌集『クルミの中』では、自身の妊娠・出産と植物や身近な動物の生殖が並行して詠われている。面白いのは、植物も、身近な動物たちも、ヒトも、「殖える」という点でまったく同じ生きものであるという、シンプルな視点からのびのびと生殖が詠われていることだ。「梅雨くれば」の歌も、国を、人間の作った「国」という観念ではなく、生物の息づく場所という原初的でシンプルな把握に基づいて詠まれている。

 

「草の種子…」の歌は、「生殖医療」と題された一連のうちの1首である。「殖えながらわたしはすこし遠くへ行く」は、種(しゅ)としての草のつぶやきであろう。1個体が殖えることは、種として今いる場所からすこし遠くへ行くことである、というほどの意味合いだろうか。草と同じくヒトもやはり「殖えながらすこし遠くへ行く」と認識されているだろう。種としての歴史、というと大げさかもしれないが、広々とした視野の中に1つの生殖が解放されるところが独特であり、のびやかである。

 

編集部より:早川志織歌集『クルミの中』はこちら↓

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