つばくろが空に搬べる泥の量(かさ)ほどのたのしみ君は持つらし

梅内美華子『火太郎(ほたろう)』(2003年)

細い体で、すいすいと空を行き交うつばめが、巣作りのためか、その脚でわずかずつ泥を運ぶ。「その量ほどの」とたとえられた「君のたのしみ」とはどんなものだろう。まず、ささやかな感じがする。それだけではなく、作者以外の人ではなかなか気付かない、「君」独特のたのしみであるように思える。作者もその独特さに驚き、不思議な思いで見ているのだろう。

 

同じ歌集から3首引く。

 

凌霄花(のうぜん)の花枝ずいと引く君の、わが知りていしはずのかなしみ

言いおえて君が水のむひとときをゆっくり拾う声の落葉(らくよう)

君がかなしみわが抱えるという奢り のろしは秋の空突き抜ける

 

1首目は、「君」のかなしみを「知っている」と自分が思い込んでいたことに気がついたという、ちょっとさびしい歌だ。2首目は、「君」の話に耳を傾け、「君」が息をついて水をのむ間に、それまでの話を「われ」が反芻する。それも、話された内容ではなく、君の「声」を落葉にたとえて、それを拾うという。声に表れる「君」の感情や感触を確かめる感じだ。3首目はかなしい。「君」のかなしみを分けて抱え持てると思ったのは奢りでしかなかった、と明確に気が付いてしまう。いずれの歌も、「凌霄花の花枝を引く」、「落葉」、秋の空に突き抜ける「のろし」という具象が鮮やかに効いている。

 

掲出歌の、つばめの運ぶ泥も同様で、「君」とわれとの間にある距離を、重くはない調子で具象化する。これらの歌に漂う明るいさびしさが、作者の相聞歌の特徴である。

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