こひねがい潰(つひ)えたる夜を黙しゐて子の万華鏡のさまざま覗く

田谷鋭『水晶の座』

 

人はいろいろとこいねがうものだ。恋愛、昇進、富、権力、家庭、何かの達成、入手。もしくはそれは、生を繋ぐためのぎりぎりの願いかもしれない。様々に尽力し、手をまわし、頭を下げ、結果を待つ。そうした一縷の望みは、多くの場合、あっけなく消え去る。

 

作者は何をこいねがっていたのだろう。それは分からないがともかく、願いが潰えたことがこの夜に知らされた。失望の内にひとり座り込み、ただ押し黙って夜を過ごす。家族も声をかけられないほどの落ち込みようなのだろう。そうしているうちに、なんとなく手に取ったのは、近くに転がっていた子どもの万華鏡。なぜこんな子供だましのおもちゃを覗く気になったのか。覗いたからといって、慰められるわけでも、悲しみを忘れるわけでもない。しかし、七色の万華鏡の光を、作者は見つめやまない。

 

下句の修辞は実に微妙だ。「子の万華鏡のさまざま覗く」とは、「子どもの万華鏡のさまざまに変化する輝きを覗く」ということだろう。「輝き」を省略しているわけだ(子が万華鏡を覗いている、という意味ではなかろう)。すると、作者が最も強調したのは、「覗く」の直接の目的語である「さまざま」という言葉なのだと分かる。つまり、万華鏡それ自体よりも、様々に変化する光を延々と見続けることが、作者にとって大事だったのだ。

 

田谷のこの一首は、人間が懸命に生き、苦しむなかで、時折に訪れる〈無為の時間〉を描いているように思う。決して、慰めや楽しみの時間ではない。何の意図も目的もない、無為の時間。一つの願いが潰え、それでいて、その願いへの思いからも途切れた時間。そういった時間にこそ、〈市民〉の本当の姿が浮かび上がるのではないか、と思うのだ。

 

 

編集部より:『水晶の座』(抄)を含む『田谷鋭歌集』はこちら↓

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