橋の見るゆめのようなる町並みの眩しきなかをほんやら洞へ

永田紅『ぼんやりしているうちに』(2007年)

ほんやら洞は、京都にある喫茶店。
京都大学のある百万遍から今出川通を西へ、加茂大橋を渡って同志社大学の近くにある。
経営者は写真家としても知られていて、店はかつて、秋山基夫、有馬敲、片桐ユズルといった所謂オーラル派の詩人たちや、関西フォークの拠点だった。
文化の発信基地的な店でもあったが、そんなことを知らない学生たちにも、ふつうに愛されてきた。いま流行のカフェのはしりのような店でもある。

橋、は特別な場所だ。
通る人の歩みは、しばし大地をはなれ、ひかりと風につつまれる。
主人公は自転車で通ったのかも知れない。そんなスピード感も一首にはある。
橋は、町と町をつなぐのであるが、そこを通るとき、主人公にはふと、両岸の町がその一本の橋の見る夢のように感じられた。
若い主人公が、季節のなかで感じた浮遊感がまぶしく詠われている。

人の青春は一本の橋だ、ともいえる。
生まれ育った家庭や土地から足を踏み出し、いろいろな人と出会い、さまざまなことを学び、社会のなかで自分の居場所をみつけてそこへ行き着くために、自分のだけの一本の橋をかける。
空からの陽射しと川面の照り返し、そして川風。橋のうえで感じたまぶしい浮遊感は、青春期そのものの浮遊感でもある。そのよろこびとあやうさを、主人公は肌で感じている。

蛇足だが、ほんやら洞の店の名は、つげ義春の漫画に由来している。ある世代までの人には解説不要で、いまはなくなってしまったが百万遍には、ねじ式、という名のバーもあった。
きょうのお昼、ほんやら洞でカレーを食べる学生のなかには、つげ義春を知る人もいれば、知らない人もいるだろう。
一篇の漫画に因む名を店につける人がいて、そこに通う人が歌をつくり、それを読む人がいる。
言葉は、ことに詩歌は、人と人、世代と世代をつなぐ、また別の意味での一本の橋なのである。

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