夜の暗渠みづおと涼しむらさきのあやめの記憶ある水の行く

高野公彦『水行』

 

「暗渠(あんきょ)」とは地下水路、もしくは蓋をされた水路のこと。だから通常は、そこを流れる水は見えない。おそらく作者は、暗渠の蓋か通気孔か、マンホールか何かの近くにいるのだろう。足元のさらに下から水の流れる音が聞こえる。その音が実に涼しげに感じられるのは、やや蒸し暑い夜だったのだろう。

 

その時作者は、「今暗渠を流れているのは、あやめの記憶のある水だ」と思った。あやめの咲く池や小川の水か、あやめが吸い上げた水か、それともあやめを挿した花瓶の水か。暗渠の水の多くは生活排水だろうから、最後の読みが妥当な気もするが、読者が自由に想像すればいい。ともかく、「むらさきのあやめの記憶ある水」という修辞がこの上なく美しい。おそらく、あやめの紫色が水に溶けだしたイメージがあるだろう。もちろん水は透明なままだし、しかも暗渠だから、その水を直接見ているわけではない。すべては宵闇の幻想、清らかな水音が呼びだしたイリュージョンだ。

余談だが、《水の記憶》は代替医療「ホメオパシー」の言説を思い出させもする。偶然の一致だろうが、どこかこの歌には、現代の合理的科学を超えた地点への憧憬を秘めた面もあるのだろう。

 

季節はあやめの花期が終わり、その水が暗渠を流れるころだから、暑い夏を予感させる初夏のあたりだろうか。あらゆる清濁を含んだ水から、「あやめ」の美だけを抽出しようとする作者の精神。そんな、汚れから懸命に脱却しようとする心を抱える人間が一人、かすかな熱気のこもる夜にたたずんでいる。

 

 

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