わたつみへ帰りてゆける道すがらワインとなりてわれに寄る水

大松達知『スクールナイト』

 

なるほどすべての水は、海(わたつみ)から蒸発し、雨になり、地を流れ、海に帰る。地球の生命は、この大いなる水の循環のなかにはぐくまれる。私たちが日々渇きをいやし、家事に用いる水もまた、この大いなる循環の中にある。だから目の前のコップの水は、自分ひとりの水ではなく、隣人の、そして、全人類の水でもあるのだ。

 

水を飲んだとして、飲まれた水はそこで終焉を迎えるわけではない。水は私たちの身体から汗や尿となって排出され、そしてまたいつしか川の流れに合流し、わたつみに帰る。つまり、水にとって私たちの身体は、ほんのわずかな時間を過ごす寄港地に過ぎない。作者が今味わっているワインも、そんな水の一種類だろう。ワインという姿も水にとっては、ほんの一時の仮の姿。たわむれにワイナリーに立ち寄って、色と香りと味をまとったに過ぎない。そのワインが、人間の口腔を訪れることも、ちょっとした寄り道に過ぎないのだろう。

 

格調ある歌い出しの 「わたつみ」と、ちょっと微笑ましい感じの「道すがら」の言葉のギャップが面白い。私たちにとって最も親しい物質である水に、私たちの気付かない姿があるというギャップとも、響き合うような語の選択である。そんな目線があるからこそ、水の道中の一地点である「われ」を客観視できるのだろう。

 

あぢさゐを〈水の器(ハイドロレンジア)〉と呼ぶこころ 西洋人(きみたち)かなりやるぢやないか

 

これも水の歌。ちょっと尊大な言い回しが掲出歌と好対照で、並べてみると面白い。

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