高層ビルに浅丘ルリ子のくちびるの半ば開いて雨ふりそそぐ

加藤治郎『ニュー・エクリプス』(2003年)

加藤治郎の都市詠は、第1歌集から変わることなく鮮烈だ。第1歌集『サニー・サイド・アップ』(1987年)には「マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股(もも)で鳴らして」「ぼくのサングラスの上で樹や雲が動いているって うん、いい夏だ」「いくつもの楕円がぼくを疲れさせゼリーに沈む銀のスプーン」など、80年代の都市の躁の気分、それと背中合わせの憂愁をすくいとる歌を数多く見ることができる。

 

これが、2003年の都市詠となると、明らかに鬱の気分である。まず、缶に関係する歌を『ニュー・エクリプス』からいくつか。

  缶コーヒーは徹夜のにがさ俺は今なぜここに居る 鳩あっちいけ

  鬱の中から転がり落ちた缶として冷えたフロアをひとり行く俺は

  しろがねの墓を収めてしんしんと自販機は夜の路に立ち居り

1首目は、公園で缶コーヒーを手にしているところか。缶コーヒーに旨いも不味いもない。習性のように口にし、そのにがさに萎えることもあろう。徹夜をするような働き方をした後、そのにがさに遭い、不意に自分がここにいる理由がわからなくなる。「なぜここに居る」という問いが、瞬時に「俺」を突き刺し、結句の「鳩あっちいけ」という罵声としてはじける。2首目は「鬱」という字のつくりに着目した歌だ。鬱という字の上の方に載っている「缶」の字に、転がり落ちそうな危うさを感じたのだろう。そして、その缶は「俺」なのだという。鬱という概念からも転がり落ちて、冷えたフロアを行く。自分のことがよく分からなくなっている現代人の一つの姿だ。3首目は、夜の路に皓々と白い光を放つ自販機について、そこには「しろがねの墓」が収められているという。街角に立ち続ける自販機の形状と、表情を持たぬ佇まいは、墓に似通うものがある。人の肉体的な死というよりは、躍動しない、精神の死を自販機に感じているのではないだろうか。

 

  A6の通路を出ればどこからか影が帰ってきて我と行く

 

この歌は、地下駅の改札を出て、A6という地上への出口に出たところだろう。地下では、電灯は点いているものの、影の輪郭はあいまいで薄く、さまざままな方向から差す灯りに影が増殖することもある。地上に出て、影がくっきりと一つに定まる。そのことを「どこからか影が帰ってきて」と把握している。しかし、影は「我」と一体になるのではなく「我と行く」なのだ。影はいつでも我から剝がれ、「我」の意思とは関係なく帰る。「影」と「我」との分離状態をさりげなく示しながら、都市に生きる者の形の定まらなさを描き得ているのではないだろうか。

 

さて、浅丘ルリ子の出てくる掲出歌である。いつの時代のものか分からないが、映画の一場面として、女優・浅丘ルリ子の、濃く厚くメイクされている唇をイメージして読んだ。高層ビルの窓辺に浅丘ルリ子がいて、口が半開きになり、窓の外に降る雨が口にふりそそぐように見える。どこか沈鬱なイメージが街を覆い、映画を見ている者の心をも覆うような気にさせる1首である。

 

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