襟元をすこしくづせり風入れておもふは汝(おまへ)かならず奪ふ

春日井建『友の書』

 

もう、こういう短歌を歌うことが出来る歌人は、現れないのではないか。そんな気がするほど、しびれるまでに決まっている。往年の日活映画のワンシーンのようであり、現代の先鋭的なコミックの一コマのようでもある。ここには世知辛い「生活」にあくせくする小市民の姿はない。一瞬の性愛の激情を心に灯し、その定めのままに生きんとする、この上なく純粋な一人がいるだけだ。

 

いつまでも余韻として残る二句切れの鋭さ。この襟元は、眩しいほどに白いワイシャツだろうか。その下にランニングなどは着ていて欲しくない。崩した襟元の奥に見えるのは、熱い素肌。「おまへ」への思いに火照った胸に一筋の風が入り込む。そして胸に入れる風はそのまま、必ずやその胸に抱きしめんとする「おまへ」の心を暗示してもいるのだろう。

 

愛を「奪ふ」ものとして描くことは、劇的な歌世界を顕現させる。もしかしたらこの「奪ふ」を、芝居の台詞のように感じる読者もいるかもしれない。だが作者はあえて「奪ふ」という激しい言葉を使うことで、現実生活を昇華させた「美の支配する世界」を追求している。この歌の「私」も「おまへ」も、現実離れした、舞台上の登場人物かもしれない。だが、自らの生の中に、現実を飛躍した一瞬を捉えることで、歌の限りない美が紡がれることを、僕は信じてやまない。

 

  誰も彼も泳ぎ去りにき性差(ジェンダー)を知らず波間にわがただよふに

  ガウンまとふ下は裸の若者と勝負をかけてカードを切りぬ

  白波が奔馬のごとく駆けくるをわれに馭すべき力生まれよ

 

掲出歌も含めて、すべて同じ一連「半島にて」より。ここには、性差を超越して、ただ愛のために己を純化させんとする意志がある。すると却って、主体の視線は極めて男性的になっている点が興味深い。おそらく、劇化を通してこそ浮かび上がる、人生の真の顔というものがあるのだろう。しかし今を生きる私たちは、劇化するにふさわしい「魂」を抱いているだろうか。

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