吉井勇『酒ほがひ』(1910年)
「海風」には「かいふう」とルビがついている。「うみかぜ」と読むよりも軽やかだ。明治のころの歌だから、「君」はおそらく和装だろう。夏の薄い着物をまとう君の、首のあたりや袖、足元から風が吹き入る。そのことを「からだに吹き入りぬ」と言っているのだろう。「君」のからだが風と一体になっているように思われ、その体を抱けば、きっと涼しい風を抱くような気がするだろう、という。「君」のたおやかな印象まで思わせる、どこかせつなくはかない1首である。現代の恋の歌としても通用しそうなところがすごい。例えば、「君」がワンピースを着ている、という設定で読んでもよさそうだ。
この歌は、「夏のおもひで」と題された、87首から成る連作のうちの1首だ。夏、相模の海にやってきて恋をするという物語が短歌で繰り広げられ、江の島や鎌倉、伊豆などの地名が舞台として登場する。本当に、ひとつのドラマを見たような読後感をもたらす。「夏の恋」というモチ-フは現代のテレビドラマが繰り返し扱っているけれど、早くも吉井勇が短歌でやっていた、というところがまた面白い。
ましぐらに砂丘をくだり海に入るからくも君が手より遁れて
ひと夏は情(なさけ)を盗むかたきとも知らでわが頬を寄せにけるかな
おどろかす鴎もあらぬしづけさにその接吻(くちづけ)の長かりしかな
1首ずつでくっきりと場面を立ち上げながら物語を進める。吉井勇はうまいのだ。この一連は「立派な小説だ」と、森鴎外が評したという。