おほかたの友ら帰りし構内に木の椅子としてわれを置きたし

澤村斉美『夏鴉』

 

小学校の、あの無骨な木片の椅子が懐かしい。座面は一枚板ではなく、細い板を何枚か敷いたものだった。不格好でそっけなく、重厚で、それでいて温かかった。パイプ椅子やデザインチェアーとは違う面白さがあった。掲出歌の「木の椅子」がそんな椅子は分からないが、僕は一読、小学校の教室を思い出した。

 

「構内」は学校内、おそらくは大学内のことだろう。特定の建物を思い浮かべてもいいし、中庭や緑地の木の下を思ってもいい。そんな場所に、木の椅子となった私を置きたい、という。もしかしたら誰かを座らせてあげたい、という思いがあるのかもしれない。「おほかたの友ら」という初句もユニークだ。つまり構内には、まだわずかな友が残っているのだ。遅くまで実験する理系学生か、図書館に籠る文系か、練習にいそしむ体育会系か。大多数の友人は帰ったが、私が一番大切に思う友はまだ構内に残っている。私は椅子になって、人影のまばらな構内に、その友ひとりだけを待つ。もしかしたら、ほのかな相聞歌なのだろうか。

 

この歌世界には、私の他には誰もいない。ただ、木の椅子となって誰かが座るのを待つ自分がいるだけだ。もちろん、上記のような読みをする必要もなく、単に人身を離れ、椅子への変身を思う歌として読んでもよい。しかしどの場合でも、フランドル絵画を思わせるこの風景の静寂さは変わらない。その時にはもう、私の息音すらしない。夕日を浴びる、一脚の椅子があるだけだ。

 

  浅すぎた思ひに気づく梅の木の痩せつつ曲がる夜を帰り来て

  さむからぬ日々の果てにてしまりなし梅から梅へ君に並びつ

 

上記の木は梅だが、作者にとって「木」はどこか、恋の香りを秘めたものなのかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です