流灯に重なる彼の日の人間筏わが魂も乗りて行くなり

山口彊、Chad Diehl(訳)『And the River Flowed as a Raft of Corpses』

 

物心ついてから初めて、「広島・長崎」の名を聞かない夏を過ごしている。イギリスのメディアが原爆忌に触れることはない。それは当然だろう。だが、日本にいれば当然に聞いていたはずの地名を聞かないことに、どこか不安を感じる自分がいるのは確かだ。追悼は個人個人の心で行えばいいのだとしても。

 

今年一月、イギリスである一人の日本人被爆者が話題となった。広島、長崎の両原爆に遭遇した二重被爆者・山口彊氏を、BBCのバラエティショーが、「世界で最も運の悪い男」として紹介した。これに在英日本人は強く反発し、日本大使館が抗議、BBCが謝罪するに至った。本件に関してはなかなか難しくて、おそらくイギリス人には「日本人の抱える原爆への思い」がすぐには分からないだろうし、一方、日本人には、「原爆の翌日に動いていた日本の電車を引き合いにして、すぐ止まるイギリスの電車を笑ったのだ。山口氏を笑ったのではないのに」(番組のトークはそういう内容だった)というイギリス人の当惑を、理解できないだろう。ようするにお互い分からない。そういう場合はただ、その時に何があったのが、当事者が何を言っているのかを虚心に見つめるしかない。昨年亡くなった山口氏には一冊の歌集『人間筏』があるそうだ。おそらく少部数の私家本で、専門歌人は誰も読んでないのだろう。短歌界における山口氏への言及は、皆無ではないか。

 

     ※     ※     ※     ※

 

僕が読んだのは、65首の短歌を選んで英訳し、日本語の短歌とならべて収録した一冊だ。原爆投下の直後、山口が見たのは、広島の太田川を埋めて流れる人の亡骸だったという。それを山口は「人間筏」と表現した。彼は自分の体験を誰にも語らず、その代わりに営々と短歌を作り続けてきたという。お盆の灯篭流しは、死者の魂を送るための火である。その流灯が連なって流れゆく様に、かつての悲惨な光景を幻視した一瞬、己の魂もまた、川に流れゆくのを感じた。目の前を過ぎゆく灯篭が死者の魂の表れだとしたら、作者は魂を流されてゆく死者の側にいたのだろう。彼の日の死者は、私だ。

 

  大広島炎え轟きし朝明けて川流れ来る人間筏
  うち重なり焼けて死にたる人間の脂滲みし土は乾かず
  半燃えの死体踏まじと跨ぎ見つ胸腔煮えていろ黄なる臓
  燃え残る襤褸と見つつ近づくに中に人在り生きて蠢く

 

たしかに峻厳に言えば、竹山広の歌の方が、遥かに短歌的完成度は高い。しかしだからと言って、山口の歌を読まずともよいという理由にはなるまい。人体の油脂が滲んだ土は、いつまでも乾かない。むき出しになった死体の胸には、黄色く臓器が煮えたぎっている。そのどうしようもない風景一つ一つを短歌に刻みつけてゆくことで、作者は戦後の命を歩んできたのだろう。極限の大情況をイメージ化することで受け止めつつ、個別の人間の死を、凄惨な表現になろうとも具体性を尽くして見つめる。そこには声にならない怒りと悲しみをなんとかつなぎとめようとする、詩の力がある。

 

  弟は沖縄玉砕原爆に死にそこねたる吾は老いたり

  My little brother,
  a shatterd jewel at Okinawa.
  I outlived him
  ever after two atomic bombs.
  I have grown old.

 

コロンビア大で日本文学を学んだチャド・ディール氏の英訳も、非常に良質かつ創造的なものだと思う。ここでは一例だけを挙げるが、この「玉砕」に文字通りの直訳「a shatterd jewel」を当て嵌める点など、最終行の老いとの比較がより鮮烈となっており、深く感銘を受けた(玉砕をshatterd jewelと訳すこと自体には先例があるようだが)。日本でこの英訳歌集が購入できるのかどうかは分からないが、出来れば多くの人に読んでもらいたい(追記:日本のアマゾンで買えるようだ)。歌集『人間筏』が、手に届きやすい形で完本として刊行されることを望みたい。本日は長くなった。申し訳ない。

 

  スミソニアン原爆展に除外されし融け塊りしロザリオの青
  ひとつ身に遭う広島忌長崎忌二重被曝者と言はれつつ老ゆ
  

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