科学者純 焚けよと綴りし恋文が展示ケースに曝(さら)されてをり

秋山佐和子『晩夏の記』(1993年)

前回の「石原純の不惑や」の歌と、視点や距離がすこし違う歌である。
石原純と原阿佐緒。
阿佐緒ははじめ、純の求愛にとまどい拒絶していた。けれど純の気持ちは鎮まるどころかどんどん加速していく。純粋に阿佐緒の愛を求めたのだろうか。わからない。
相手の気持ちや立場も考えられなくなるほど、阿佐緒にひかれていたということか。
いずれにしても、強い愛のひとつのかたちとして、純の言動はかえって痛々しい。

純は、自分から遠ざかろうとする阿佐緒に渾身の手紙を何通も出す。
読んだら捨ててくれ、としたためながら。
しかし、その手紙は捨てられたり焼かれたりすることはなかった。
何十年も経て、資料としてケースに入れられ、ガラス越しに多くのひとびとに読まれている。

そのときの純の熱い息吹、阿佐緒のとまどいにおもいを馳せる。
「曝されてをり」という表現から、見てはいけない、そっとしておきたい愛を静かにみつめている姿を想像する。

ふたりの愛は遠くにみえる花火のように美しい。けれど、どこまでもふたりだけのものである。
そして「展示ケース」の前に佇むわたし。
わたしの愛のかたちを、自らにそっと問うているようでもある。

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