どうしても抜けぬ最後のディフェンスは塩の色した夏だとおもえ

正岡豊『四月の魚』

 

炎天下の球技場。少年サッカーの風景だと思った。チーム一丸となって果敢に攻めようとも、どうしても最後のディフェンス選手を抜けることが出来ない。そうしてホイッスルが鳴るまで、ゴールチャンスを迎えることなく、一つの試合が終了し、チームメイトにとっての夏も終わるのだろう。

 

どれだけ仲間たちと突進しても抜けることのできない防衛ライン。それこそが「夏」なのだという。塩の色とはどんな色だろう。白くて、輝きを持ち、乾燥し、その色を見るだけでどことなく口の中に塩気を感じさせる。それはとめどない汗や擦り傷の血に彩られた、目もくらむような白い光に満たされた「夏」の一瞬だ。

 

作者はこの場合、観客席から応援する視線を仮想しているのだろうか。少年たちは夏の真っ盛りに、まさに「夏」という壁に向かって戦っている。この相手のディフェンスも強豪チームの選手ではあるが、同じく少年なのだろう。だが、彼を「夏」と表現した瞬間に、この「最後のディフェンス」からは特定の選手の姿がかき消え、まるで、人生の少年期に出くわす挫折そのものであるかのように思えてくる。その時作者もまた、球技場の応援席を抜けだし、少年期の夏を走る者たちへ無心に声援を送る一人、つまり、「かつて少年だった大人の一人」という位置にたたずんでいる。

 

  甲虫にこのかなしみをひきずらせほほえむのみの夏のあけぼの

 

「このかなしみ」は、何の悲しみだろう。夏とは少年の季節であり、永遠の希望の光であり、そして、初めての挫折と悲しみを思い出として心に刻み込む、大切な季節なのだ。

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