ホイッスルに咎められつつ駆けぬけぬゼブラゾーンの水はねかへし

桜木裕子『片意地娘(ララビアータ)』

 

警官の警笛だろうか、いや、もしかしたら、いわゆる「緑のおばさん」(正式名称は学童擁護員)のホイッスルかもしれない。信号が赤になりかけの横断歩道(ゼブラゾーン)を走ってわたってしまう。それを見とがめられ、ホイッスルが鳴る。「あー、ごめんなさーい」と声には出さないが心に思いつつ、そのまま走り去ってしまう。そんな一瞬を、誰しも記憶しているだろう。その時、横断歩道に溜まっていた水を踏み、はね飛ばしてゆく。だからこの歌は、雨上がりの風景だ。

 

雨が止み、光がきらめく中に警笛が鳴り、水のしぶきがあがる。そしてその中心を疾走してゆく作者。とりとめもない、深い意味もない日常の一コマだが、なぜだろうか、こう歌にされると、「青春だな」という気分がしてくるから不思議だ。そうすると、このゼブラゾーンを駆け抜ける様子も、若さにまかせて何もかもを突っ走っている若者の心の比喩のように思えてくる。ホイッスルはさしずめ、そんな若者を危ぶむ大人の声だろうか。でも、もう道は渡り切ってしまったのだ。

 

桜木は合同歌集『保弖留海豚(ホテル・ドルフィン)』(昭和62)に参加し、歌集『片意地娘(ララビアータ)』(平成4)を出したのち、歌を辞めたという。その歌集を古書店で手に入れたのは随分昔で、すでに歌を辞められていたことも知らなかった。いつか歌の世界に戻ってこられて、お会いする日もあるかもしれない、と思っていたが、昨年、急な訃報を聞いた。僕にとっては、純粋にただ歌しか知らない歌人である。

 

  河に棲む神をくすぐり笑はする夏のはじめのみづにてあらな

 

初夏の川の流れから、まるでアルカディアの光景のような幻想を紡ぎ出す。そして作者自らがそこに転身して見せる。「言葉がきらめく歌」とはまさに、こういう歌を指すのではないか。才覚と詩性の幸せな合致を思わせる。歌集を評して岡井隆は「桜木さんの歌にはどこか単独者の辛い表情がある」と書いたが、それもたしかに、若さがきらきらした理知的な詩性のゆえなのだろう。

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