てのひらにつつむ胡桃の薄緑この惑星に子よ生れてくるしめ

西王燦『バードランドの子守歌』

 

子を持つ、とはどういうことか。父親にとってのそれと、母親にとってのそれは、時には違う意味を持つのかもしれない。この一首からはどこか、「父親」の視点が感じられる。胡桃といえばすぐにあの固い石果を思い起こすが、木に生っている時はその上に仮果という身をまとっており、緑色だ。この掌中の胡桃はつまり、木から採れたてなのだろう。いうなれば、乾燥した石果となる前の、まだ植物性を思わせる果実。それを手の中に大切に転がしている。

 

「胡桃」という語句を出して、例の石果を一瞬想起させ、その直後に「薄緑」と加えて、読者に軽い混乱を呼ぶ。この褐色と緑色の往還の中に、「子」という存在への視線があるように思われる。つまり、このみずみずしい果実がいつしか乾燥した種子となるだろう、という幻を見るように、「子」の生命力を見ている。だからこそ子に向かって「くるしめ」という呼びかけをなす。作中主体の性別は歌中に明記されてはいないが、やはりこれは男の歌だろう。「惑星」にはルビはないが、ここは「ほし」と読んで定型に納めたいところだ。

 

薄緑の胡桃を大切に握りつつ、己の命を受け継いで生まれるだろう「子」を思う。そして胡桃は乾燥した種子となり、より過酷な環境でもその内側の仁を守り抜く。生まれた時は柔らかな果実である我が子も、成長した後はそんな頑健な精神を保ってほしい。母親から見れば、身勝手な男の願望に見えるだろうか。しかしながら、父親という生物は、己の子にどこか、ロマンを託してしまうものなのだ。時にそのロマンは、子を持ったことへの悔恨の形を取ることもあるが、それも家族への愛情深きゆえと、世の母親にはご理解願いたい。

 

  あたらしき悔恨、母と子はよぎりゆく獣園の白き一角犀の前

  『秋のソナタ』見終へて霙、母と子の入り乱れたる靴跡の上

  他人の血流るる街を帰り来て「坊やは火星に亡命するわよ」

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