なにとでも呼べる気持ちの寄せ植えにきみの名前の札をさしこむ

遠野サンフェイス『ビューティフルカーム』

 

心の中に寄せ植えがある。色んな草花を集めた寄せ植えのように、色んな気持ちをあちこちから掻き集めてきたから、一概に名前はつけられない。いやむしろ、すべて自分の外から持ち込まれた気持ちなのだから、なんとでも名付けることだって出来る。さしあたり、「きみ」の名前を札に書いて、心の寄せ植えの前に挿しておこう。

 

複雑な恋心のようでもあるし、自らの芯の無さを嘆く自虐的な歌にも読める。というか、その両方があるのだろう。初句の「なにとでも」という口調が、やさぐれた主体の心を表現しているように感じる。結局、己の中には「本当の自分だけの心」なんてない。「きみ」への思いもまた、寄せ植えの一要素。でも今は、すべての気持ちを「きみ」と名付けて、この一瞬を過ごそう。

 

この一首の肝は「寄せ植え」だろう。心の形容としてこの単語はなかなか出てこない。この比喩を発見したことで、掲出歌は詩性を獲得したと思う。文体としては実に平明で、作者個人だけの私性からも遠い。この一首は誰の歌であってもよい。なかなか気付くことのできない気持ちのあり方だが、いざ発見してみると、そこに普遍性があることに気付かされる。

 

  人生のパズルを神はあらかじめ5ピース抜いて出荷している

  ふわふわとあなたは明日も生きてゆけ洗濯槽に溶いた祈りで

  この恋は戦争だからいいひとの迷彩服を脱げないでいる

 

感情の普遍性と、リリカルな詩性を両立させるのは、巧みに歌にはめ込まれたアイテムや言葉の選択の力かもしれない。「出荷」、「洗濯槽」、「迷彩服」といった語が、これらの歌を単純なキャッチフレーズ、商業コピーに留めず、ポエジーの世界に届けようとしている。既存の短歌界からは「短歌に似た短歌以外のもの」という評言がなされることもあるが、私性を裏書きとしないこういった「短歌」が、現代の日本語にまた新しい詩性を加えるのではないか、という気がする。

 

なお、本歌集は歌集というより、作者による写真作品と組み合わせたカード集の体裁を取っている。こうした作品集が増えてきたのも、面白い動きだろう。文芸フリマで小部数が頒布されたそうで、電子書籍版もある。作者の短歌や写真に興味があればぜひ作者のサイトへ。短歌はこちら

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