涅槃図の鳥獣のごと野に立てばまた逃げ水の父あらはるる

辺見じゅん『幻花』

 

「涅槃図」とは、釈迦の入滅を描いた仏画。沙羅双樹の下で横たわる釈迦を、諸菩薩をはじめ一切の生類が囲み、嘆き悲しむさまを表すものが多い。そこでは鳥獣までもが釈迦の死を悲しみ、その恩徳を尊んでいる。人間のように悲しみを露わにして項垂れる虎や獅子、馬、雉、孔雀、鳩、さらには蛇や亀などの無数の生き物。そのように今、私は野に立っているという。

 

ここには不思議な精神の回り道がある。「釈迦の死を悲しむごとく野に立てば」ではないのだ。いったん己を、鳥獣という人間以外の存在に変化させた上で、死を悲しむ。分別の無い鳥獣としての私をも、人として悲歎させるほどの悲しみに直面している、そういう精神状態の襞を、涅槃図という枠を借りて表現している。

 

涅槃図の鳥獣が悲しんでいるのは釈迦の死。だとすれば作者は、釈迦の死に匹敵することを悲しんでいるのだろうか。それはどうやら、父への思いのようだ。しかしその父はしっかりと姿を現さない。近づけば近づくだけ遠ざかる、「逃げ水」のような父。「また」というぐらいだから、永遠に近づけない父は何度も脳裏に現れたのだろう。その距離感は、分別なき鳥獣と涅槃を得た釈迦との距離を思わせるのかもしれない。

 

現実の光景としては、遠くに逃げ水の見える野に立っているだけのことなのだろう。その遠ざかりゆくものこそが「父」。伝記的事実を言えば、作者の父は角川書店創業者であり俳人の角川源義ということになるが、この歌では、どうか。辺見さん、お父様には再会できましたでしょうか。

 

 

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