殺される自由はあると思いたい こころのようにほたる降る夜

斉藤斎藤「今だから、宅間守」(るしおる63号)

 

殺されることに、自由も不自由もあるのだろうか。自ら望んで殺される者などいるのか。いるように見えても(自己犠牲とか、尊厳死とか、殉教とか、色々あるだろう)、それは殺されざるを得ない状況を押し付けられただけではないか。しかしそれでもどこかで「殺される自由はあると思いたい」私が存在する。そんな心のまま、ほたるの小さな光が舞う闇の中にたたずんでいる。

 

改めて、「殺される自由」とは何だろう。それは、殺されることを己で選択できる自由。言いかえれば、いつどのように殺されるのかを自己決定でき、それ以外の殺され方を拒否できる自由でもある。よくよく考えれば、すべての人間は時間や運命に必ず殺される。そして一部の私たちは、生殺与奪の力を振るう「国家」の下に生きている。一部の独裁国家はそうだろうし、また、民主国家である日本にも、死刑がある。

 

  「あいりは二度殺された」などと言う権利は父にもないなどと言う権利

  家が安定した裕福な子供という不条理さを世の中に分からせたかった

  バス停にベンチがあって座ってる 事なかれ事なかれ事なかれ

  人を殺す自由はあると思いたい ことばの上でかまわないから

 

連作タイトルを見ればわかる通り、本作品は2001年に発生した附属池田小事件をモチーフにしている(上記一首目のように、広島小一女児殺人事件などの他の事件も含む)。裁判調書などを詞書きに多用した一連なので、実際の作品を読んでもらいたいところだが、集中には上記のような作品も並ぶ。なぜ八人もの児童が「殺される自由」を踏みにじられ、望まぬ形で殺されなければならなかったか。なぜあの男は八人を殺害し、「殺される自由」を要求するような人間となってしまったのか。当時、多くの識者が様々に論じたし、また、皆さんにもそれぞれ考えはあるかと思う。しかし畢竟、理由はわからないだろう。あの男自身にも。

 

「殺される自由はあると思いたい」。そう思う裏で作者は、どこかで気付いたのではないか。私たちには〈本当の意味で己の命の在り方を自己決定できる自由〉が無いのだ、と。殺されることが不条理ならば、生きることも不条理かもしれない。殺す者と殺される者、つまりはすべての者の心のように、ほたるが闇をさまよう時代を、声もなく見つめる一人が、ここにいる。

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