才われにすこし劣りて姿よき友と啖へり朝引きの鶏

島田幸典『no news』

 

男同志の付き合い、というのも、なかなかに微妙だ。どうしてもそこには、プライドの張り合いが隠れている。それは、友をどう見るかということだけではなく、その友を鏡として、自分をどう見るか、ということでもある。その意味で掲出歌は、なかなかに冷酷で、なかなかに余裕もある。

 

「才われにすこし劣りて」と歌い出すのは、かなり勇気がいる。その裏にあるのは自尊心だけではない。自分を露悪的に描いてみたい、というナルシスティックな感情もあるし、一方で、そう言い切ってしまうことで退路を断つ、己への厳しさもある。そして、その次に来る「姿よき」で、自分と友との関係の、一応の均衡を図ろうとする。このあたりの微妙な逡巡が、単純ではない友の評価、そして自己評価の揺らぎを示している。「才われに」という硬質で急な初句と、「劣りて姿よき」という音に落ち着きのある三句目の対比にもそれが表れている。

 

そうした私と友が語らいつつ、朝引きの鶏をくらう。素材の選び方が見事という他ない。朝一番で絞めた鶏。朝という希望の時間を一瞬で止められた者の雰囲気がある。他者の才能を測り、その未来を摘んでしまう、そんな力でこの鶏は絞められたのではないか。 恐らくはちょっと高級な焼き鳥屋だろうか。この「啖(くら)へり」は当然、「健啖」のイメージを呼ぶ。そこには何か、微妙な人間関係を上句のように決定づけることでさくっと割り切り、ひとまずは食を愉しもうという、思い切りの良さもあるかも知れない。鶏の脇には、吟醸酒が冷えているはずだ。

 

  小藩の閑日のごと晩秋をおとこふたりで蟹の身を剥く

 

男の関係は、食事風景に色濃く表れるのだろうか。上記の歌、お互い言葉少なのように思える。それだけに、余人が分け入ることを許さぬ、男同志の連帯のようなものも感じさせる。

 

編集部より:島田幸典歌集『no news』はこちら↓

http://www.sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=311

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です