うるわしく人を憎んだ罰として痒みともなう湿疹が生(あ)る

野口あや子『くびすじの欠片』

 

人は人を憎む。生きるために、己の心を保つために。その憎しみは、愛しさの裏返しであったりもする。あまりにも自分に近いから、かつて愛してしまったから、この上なく憎い。掲出歌の作者が、誰を何のために憎んだのかは分からないが、その理由は、己の心の在り方に深く関係しているように思える。その憎しみが、自分にとっては麗しいのだから。

 

人を憎むことは、通常ならば醜いことだ。しかし掲出歌においては、麗しい。人を憎む己の姿を愛してしまう、歪んだナルシシズムかもしれない。もしくは、その憎しみ自体が、愛の過程に内包されていることを、作者はよく理解しているのかもしれない。愛情の中で育まれる、一抹の憎しみ。だからこそ、その罰として肌に生まれるのは、痛い傷ではなく、痒い湿疹なのだ。

 

愛憎の絡まり合った感情を、自己の身体を核として表現する。よく言われる「体性感覚の歌」というのとも、少し違うような気がする。己の身体を詩的な比喩の目盛りにすることで、一首のなかに説得力を持たせようとしているのかもしれない。掲出歌の場合、やはり「痒み」の一言で、ぐっと歌が引き締まり、ナルシシズムの甘い上句を巧みに補強しているように思う。

 

  すっぽりとこの世から消えたことなくて携帯の灯が点滅してる

  檻を恋う小鳥の声で鳴きながら安定剤をはんぶんに割る

 

自己愛というものが、己を甘やかすことに繋がるのではなく、むしろ己を厳しくさいなむような形で浮かび上がってくる。その奥にはある種の諦念と情熱が同居している。野口はそこに時代の抒情を見つけたのだろう。

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