燠のごときひかりと思うガラス戸に身をつけて見る闇の海の灯

武川忠一『秋照』

 

遠くの闇の奥に、燠火が見える。夜の海の果てに灯る明かりは、小さな炭火のようだ。あれは漁船の燈火だろうか、ただ小さな光の点が揺らぐばかり。その燠火はいつか、夜の闇の中で火種となって、大きな火を生み出すやもしれない。

 

その遠い海の夜景を見つめる作者は、ガラス戸のこちら側にいる。こちらは、私たち人間が暮らす世界。ガラス戸のあちら側は、荒涼たる暗き海原が広がり、そこには小さな燠火があちこちに隠れている。それらの内のどれかがいつかは燎原の火となって、暗い海原を大火で包むかもしれない。しかし、私はただこちら側にいて、その火の根源を、ただ遠く見つめるしかない。

 

端的に言ってしまえば、ガラス越しに漁船の火が揺らめく夜の海を見つめている状況を歌ったに過ぎない。しかし、その状況において、「私」がどこに位置し、どのような息をしているかを描くことにより、その状況は一片の詩となる。ガラス戸は「私」の眼前に存在し、それ以上でも以下でもない。しかし、そのガラスを通して漁船の火を「燠」と見た精神の前では、それは一瞬の〈境界〉となりうる。いつかは広き世界を焼き払うやもしれない火種を遠く見る「私」が、その〈境界〉のこちら側に取り残される。「私」の中で燠は、いつまでも燠のままであり続けるのだろう。

 

  触れ合いて鳴るみずうみの薄氷の刃(やいば)はせめぐ蒼き光に

  蒙昧のおしよする冷え雲ひくき秋草の野は日暮れならねど

 

氷がきしみ合う、かそかな響き。冷気がともなう、暗がりの季節。それらの微細な波動を、言葉の力でもう一度眼前に刻み込む。丹念な修辞の中に、研ぎ澄まされた主体の精神が見える。この修辞はまさに、武川の生の精神そのものなのだ。

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