秋光のいまなにごとか蜘蛛の巣に勃(お)こるまでわが視野の澄むべし

小中英之『わがからんどりえ』(1979年)

秋は目が浄(きよ)くなる。気のせいだとしても、そうとしかいいようがない。光や空気、あたり一面の透明度が増し、磨かれた世界がぱっと開けたように感じるのはどうしたことか。その秋の目の感触を信じてもいいと、小中英之の掲出歌を読むと思えてくる。

 

秋の光のなか、蜘蛛の巣を見ている。ごく具体的な場面として、それだけの歌として読んだ。しかし、「いまなにごとか」と臨場感たっぷりの言い回しで、蜘蛛の巣になにかが起ころうとするのを見つめる緊張感がただよう。しかし、たぶん何も起こらないのだろう。巣に蜘蛛がおり、じっとしているか、緩慢な動きをしている。作者の目が興にそそられてわずかな時間見つめているのだ。大切なのは「わが視野の澄むべし」という感覚だ。秋の光を受けて、繊細な蜘蛛の巣はきらめき、それをひたと見つめる目とそこに映る世界が澄むというのだ。季節感を、鋭くうつくしく構築した一首である。

 

同じ歌集の秋の歌に次の歌もある。

  しばらくは家族のひとみ浄からむ秋のそこひの木の葉の化石

家族が木の葉の化石を見ている。私はごく具体的に、秋、家族とともに博物館に来て化石を見ている場面として読んだ。家族のひとみが「浄からむ」というのは、無心に化石を見つめる家族の目の様子をいうのだろう。「しばらくは」に少し屈折があり、家族のひとみがほかの時は必ずしも「浄い」わけではないことを思わせる。当然のことで、人の目はさまざまな思いを映して複雑な色を見せる。しかし、いま、化石を見ているこの時、家族のひとみはくもりもてらいもなくしげしげと化石を見ている。秋という澄んだ季節がふさわしい一場面だ。

 

2001年に亡くなった小中の『小中英之全歌集』(2011年7月)が刊行された。驚くべきは、「初期歌篇」(佐藤通雅編)の充実である。第1歌集『わがからんどりえ』の、掲出歌に見られるような美意識に至るまでの作品を読めることは幸いである。

 

編集部より:『小中英之全歌集』はこちら↓

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