ときおりは呼びかわし位置を確かむる秋の林に家族は散りて

永田和宏『華氏』

 

秋の林をゆく一家族。紅葉狩りだろうか、もしくは何かの作業中か。「散りて」とあるから、夫婦や父子などの二人だけではなく、三、四人以上で来ているのだろう。そして、家族が林に分け入り、お互いの姿が見えなくなる。固まって歩いているわけではない。各々で行動するということは、茸狩りや栗拾いの類かもしれない。

 

家族と一緒に来たことは自覚していても、夢中になるとつい一人で家族から離れ、林の奥に分け入ってしまう。だから吾に還った時に、「ときおりは呼びかわし」て、お互いの場所を確認しあう。それは家族の一員が今現在も過去と同じく、家族の一員として存在することを確かめてもいるようだ。逆を返せば、「ときおりは呼びかわし位置を確か」めないと〈世間〉という林の奥へ家族が拡散してゆきはしないか、という怖れを示してもいる。 

 

普通は上句と下句が倒置されていると解するべきだ。だが、淡々と読み下すと、「位置を確かむる」今この瞬間にこそ、秋の林の中で「家族は散りて」ゆくようにも感じられる。初句の「ときおりは」も何だが妙に意味深に感じられ、何でもない秋の一光景に見える掲出歌の裏には、家族の在り方への複雑な思いが籠っているような気もする。

 

  用のなき電話は君の鬱のとき雨の夜更けをもう帰るべし

 

「用のなき電話」こそが、〈家族〉にとって用のある電話なのだろう。きっとこの電話もまた、秋の林でお互いに呼びかわしあう、家族の声なのかもしれない。

 

 

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