故郷近くなりて潰せるビール缶の麒麟のまなこ海を見るべし

島田幸典『no news』(2002年)

電車に乗って帰郷するところだろう。故郷の駅が近くなり、道中のみほしたビールの缶を潰す。「麒麟のまなこ」は間違いなく、キリンビールのあの「麒麟」だ。黄色いたてがみをなびかせ、龍のような頭を持つあの想像上の動物のイラストだ。一見勇猛な姿をしているが、案外、茫洋とした目をしていて愛嬌がある。缶が潰されてゆがみ、その「麒麟のまなこ」がたまたま、海の方を向くだろう、というのだ。海に目をやる気持ちは作者のものなのであり、故郷付近の海を目にして緩む心を「麒麟のまなこ」に託している。帰郷の気分をのびやかで明るい詠いぶりですくいとる。

 

島田幸典の歌を読むと、抒情豊かな映画の一場面を見たような気持ちになることがよくある。

 

  小藩の閑日のごと晩秋をおとこふたりで蟹の身を剝く

  小走りをやめて小雨に濡れてゆく歩みは不平士族のごとし

 

この2首は「武士シリーズ」と私の勝手に呼んでいるものである。1首目は、男二人が蟹を食おうと剝くところを「小藩の閑日のごと」と喩える。「晩秋」の季節感を合わせて、男二人の寂びのある光景を見せる。言葉数少なく、淡々と蟹の身を剝いて、「うまい」「うまい」と言い合うのだろう。寂びの味が押しつけがましくなく、静かな友愛すら感じさせる。それは、詠みぶりによるものとしかいいようがないが、「小藩の閑日のごと」という比喩が、作者の感興を伴うものとして働いているからだろう。思えば、「小藩の閑日」とは、端的な表現ながら深い。歴史の表舞台に出るような有力な藩ではなく、小藩。江戸時代の小藩の日常には、かくのごとき場面もあっただろうと好もしく想像する作者の感性を反映した比喩ではなかろうか。2首目は、自らの歩みを明治初期の「不平士族」に喩えたものである。政府に反対する「不平士族」の反骨の心意気に、ひととき共振しているのである。「小走りをやめて小雨に濡れてゆく」と歩みが的確に描写されているので、読者は絵を思い浮かべやすい。そうした上で作者は、「不平士族」の印象を借りつつ、それを比喩として自らの心の様態に切り込む。短歌が、映画の印象的な一場面のように雄弁となり、抒情の翼を広げる瞬間を、これらの歌は体験させてくれるのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です