フランスの語彙を学べるわが上にああ月(リュヌ)といふ此岸の出口

黒瀬珂瀾『黒耀宮』(2002年)

短歌で「彼岸」「此岸」という言葉が出てきた時にどう読むか、一瞬躊躇する。それぞれ「あの世」「この世」、つまり「死後の世界」と「生の世界」としてだいたいは読める。この歌での「此岸」も「この世」として読めないこともない。一首は「月」をこの世からの脱出口に見立て、死への淡い願望をにおわせつつ、「ああ」と詠嘆する歌になる。この場合の詠嘆は、ため息に近い。脱出口を望みつつ、それが手のとどかないところにあり、この世にとどまらざるを得ないことについてため息をつく。

 

ただ、そうすると「フランスの語彙を学べるわが上に」という上句、および、日本語の「月」ではなくフランス語で「リュヌ」と読ませている理由を解釈しきれていないように思う。「月(リュヌ)」と言うことで、月は、いつもの日本語の「月」とは違うものになる。「いつもの状態」からの変革を望む心が読みとれるのであり、変革の武器として、フランス語を選んでいるのだ。「此岸」は、死の世界の対義語としての「この世」というよりも、「いま自分がとらわれている世界」ぐらいの意味でとってはどうだろう。フランス語という異国語をもって、いま自分がいる世界を塗り替える。変革を望む。「ああ」は後ろ向きのため息というよりは、熱望のため息となる。

 

  水中ゆ現世へ還る一瞬に貴種として友のゴーグル光る

 

同じ歌集から引いた。この歌では、水中の世界に対して、水の外の世界を「現世」と喩えている。二つの世界をしなやかに往還する友の姿を「ゴーグル光る」と美しく描写し、かつ、「貴種として」という喩えには、憧れを以て目撃している「われ」の心が込められている。掲出歌とともに、いま自分が生きている世界からの脱出と自由を望んで輝きを放つ歌だ。

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