啄木の日記の上に目覚むれば干し草ほどに乾ける活字

花山周子『屋上の人屋上の鳥』(2007年)

啄木の日記を読んでいた。文庫か全集かだろう。読みながら、開いた本の上で寝てしまい、目覚めた時に活字が目に入るのだ。「干し草ほどに乾ける活字」は、どんな感じか。乾いていてふかふかの干し草を思い浮かべた。詠われているのは「活字」なのだが、なぜか、作者は啄木が好きなのだろうなあと思われる。目の前にある活字を干し草のように感じることを通して、近代の啄木に思いをとどかせる一首だ。

 

同じ歌集から、次の歌にも啄木を好きな気配がある。

 

 人生の終わりの方(ほう)の夕暮れは白茶けていると誰か言いにき

 今日稼ぐのは六千円と朝と昼とずっと思いて六千円の夕方の来つ

 

1首目の「白茶けている」という口語の入り方が啄木的である。2首目は現代の日給(あるいは時給)を詠うが、労働観を労働者として扱うところも啄木と通じる。そして、啄木ばかりではなく、近代短歌への親しみがそこここに滲み出ているのもこの歌集の面白いところだ。

 

  鉄道に沿うくらがりを思うとき春とうは近代に傾(なだ)るるらしも

  利根川はすぐそこなれど越えしこと十度(じゅったび)に及ばず分厚く流る

 

1首目は、現代の鉄道沿いにある「くらがり」から、鉄道草創期の近代へ思いを至らせる歌だ。「くらがり」は、都市の変遷のうちに鉄道沿いにエアポケットのように残った古い建築物のくらがりなどの具体的な暗がりであってもいいし、鉄道沿いの路地などのあのなんとなく暗い感じであってもいい。2首目は、「なれど」や「十度に及ばず」といった文体そのものが、近代の文章に見るような文体で短歌定型になじんでいるところが興味深い。

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