山に来て二十日経ぬれどあたたかく我をば抱く一樹だになし

岡本かの子『かろきねたみ』(1912年)

大正元年刊行の岡本かの子の第一歌集である。かの子は17歳のころ(明治39年、1906年)与謝野晶子に師事し、『明星』に投稿。『明星』廃刊(明治41年)後は『スバル』同人となる。『かろきねたみ』には、「血の色の爪に浮くまで押へたる我が三味線の意地強き音」「くれなゐの苺の実もてうるましぬひねもすかたく結びし唇」など、いかにも『明星』風の歌もある。が、歌集全体としては心情の表現が格段に柔軟になっている、という印象がある。

 

掲出歌を読んでみよう。この歌の前には、

 

  うなだれて佐久の平の草床にものおもふ身を君憎まざれ

 

という1首がおかれ、掲出歌と併せて「以上二首一人旅して」と左注がつく。一人旅をし、山(信州の佐久辺りか)に来た。そして二十日を過ごしたが、私をあたたかく抱く一本の樹木すらない、という。日常を離れて山に来ても解決されない心を浮き彫りにする。前におかれた歌を参照すれば、「君」をのこして一人旅に来ているという。これを踏まえて、掲出歌の「あたたかく我をば抱く一樹だになし」が、「君」を恋しく思う歌となるかというと、違うだろうなあというのが私の感想である。「一樹だになし」の突き放したような認識と口調には、「山に一人でくればその一樹があるかもしれない」という期待が裏切られた苦みが読みとれる。解決されない心が疼いたままの、行き止まり感の濃厚な歌として読んだ。

 

心情の表現が柔軟になっているのと同時に、歌における物の扱い方も柔軟でかろやかになっている。以下は私の好みの5首。

 

  朝寒の机のまへに開きたる新聞紙の香高き朝かな
  

  橋なかば傘めぐらせば川下に同じ橋あり人と馬行く
  

  静なる朝の障子の破れ目より菊の花など覗くもかはゆ
  

  貝などのこぼれしごとく我が足の爪の光れる昼の湯の底
  

  水はみな紺青色に描かれし広重の絵のかたくなをめづ

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