わが生に歌ありし罪、ぢやというて罪の雫は甘い、意外に

岡井隆『夢と同じもの』

 

確かに、最初は好きで歌を作り始めたはずだった。それがいつしか人生の重荷になっていると感じる時がある。なぜだろう。かといって歌を辞めることも出来ない身体になっている。街で何かを見かけたとき、無意識に歌を考えている自分に驚くことがある。歌を辞めていったかつての歌友たちの顔をふと思う。彼らのことを少し羨みつつ、その裏で「俺はあいつらに勝った」と思っている卑しい自分に気付く。歌は、罪か。

 

作者は、罪だという。しかも、軽やかに言う。その軽やかさがかえって、罪の底なしの暗さを思わせる。「生に歌ありし」とは、生を歌の力で生きてきた、ということだろう。この時の歌は、単純な〈自己表現〉などではなく、己の生を人生という板に打ち付ける釘だ。究極、歌は自分のためのものであり、己の生を歌でだましだまし生きてきたのだ。それを称して岡井は、「罪」という。この潔い断言はどこか、キリスト者らしい感性を思わせる。

 

それが一気に、三句目で転換する。その罪は、蜜のように滴り落ち、雫は「甘い、意外に」。罪の雫なんて陳腐な歌謡曲調なのだが、だからこそ逆に、罪を呑み込む作者のふてぶてしさが印象深くなる。その効果をより高めるのが、一首の転調を呼び出す「ぢやというて」だ。平たく言えば「だからといって」。これは口語か、文語か。軽みにあふれた感じは口語的だ。しかし私たちは生活の中でこの言葉を口にするだろうか。むしろ浄瑠璃の語りか何かを思わせる。口語的な軽妙さの中に、文語的な重みを包む。口語的文語、と呼ぶべきだろうか。こうして「歌の罪」は韜晦の奥へと軽やかに、しかし余韻を残して逃げる。

 

  テクストを読み違へたり単純なゲームなのだよ島となる鳥

  女泣かせて甲斐性(かひしよ)なけれど直腸に坐薬沈めて眠らむとする

  スパークする天才の書く詩は終り舎人(とねり)と行かな雑魚(ざこ)すきに江(え)に

 

文語の重々しさにどこかで風穴を開けている口語的感覚。そのなかに、行きつ戻りつ揺らめく精神が浮かび、生と文学への諦念と自負が見え隠れする。そして、現代短歌を口語・文語の二項対立で語ること自体の誤りに、いつしか気付かされてゆく。

 

 

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