田楽を食いつつ見居り真上から眼をほそめ見る夕日の紅葉

佐佐木幸綱『アニマ』(1999年)

10年ほど前、一度だけ佐佐木幸綱の短歌の講義を聴講する機会があった。参加者の提出した歌を学生と先生とで評していくのだが、その中に滝を詠った1首があった。どんな歌だったか詳細を覚えていないのだが、順番が回ってきて、私は、滝を見ている人がその景色を詠っている、と読んだ。すると佐佐木幸綱は「滝自身が歌っている、滝の声の歌とは読めないか」と一言述べた。自分にはまったくなかった発想で、その歌の何をどう読めば滝自身が歌うということになるのか、さっぱり分からず、絶句してしまったことを覚えている。そのまま10年以上がたち、今年9月に刊行された『佐佐木幸綱歌集』に全篇が収録された『アニマ』を読んでいる。そしてようやく、「滝が話すこともあるかもしれない」と思い始めている。あのとき佐佐木幸綱が提示しようとした読みに、もしかしたら手が届くかもしれない。

 

掲出歌は、「田楽を食いつつ見居り」の主語は「私」である。では、「真上から眼をほそめ見る」の主語は? はじめ、私は、「私」が山間の紅葉を高い所から見下ろしている、と読んでしまった。が、「真上から眼をほそめ見る」の主語は「紅葉」が正解だろう。夕日を受けて輝く紅葉が「私」の真上にある。その紅葉が「私」を眼をほそめて見ている、のだという。「私」の視線と「紅葉」のやさしい眼とが合い、心を交わしているかのようなやさしい風景が生まれている。

 

この歌は「袋田の瀧」という一連にある。袋田の瀧は、茨城県大子町にある名瀑だ。同じ一連には次の歌もある。

 

  山毛欅(ぶな)の黄は君らの背後、並び立ち撮られむと秋の宙を目守る(まも)る眼

  月わたる夜を思えば袋田の瀧双つ瀧赤くなりたし

 
1首目は、山毛欅を背景に、同行の「君ら」を写真に撮ろうとしているところだ。黄色に色づいた山毛欅をやはり、「眼」として捉えている。山毛欅がいかにも心をもって眼を開いているようである。これを単に「喩え」といってしまうと、『アニマ』の解説にはふさわしくないように思う。修辞法としての喩えではなく、葉が「眼」をもつという思想に基づいた歌なのである。さらに、2首目の「赤くなりたし」の主語は何だろう。普通なら、「~たし」は発話者の願望を表す。だから、発話者=作者の願望であるはずだ。が、ここでは「赤くなりたい」のは「瀧」である。発話者である作者が、歌の中で瀧に一体化して「赤くなりたし」と歌っている。ここでも、瀧を心あるものとして受けとめ、その言葉を歌人がくみとる、という歌い方をしている。葉が眼も持ち、瀧がしゃべる『アニマ』の世界だ。

 

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