水喧嘩かなたに見えてかげりくる厩のさくら散りそめにけり

松平修文『水村』(1979年)

この歌を含め、『水村』に収められている作品の多くは虚構の村の鮮やかな場面を切り取ったものである。水利をめぐる言い争いを遠目に見ながら、この歌の(おそらく少年であろう)主人公の心は、厩のそばの「さくら」に目がゆく。

 

虚構とはいえ、どこかリアルな感じがするのは「かなたに見えて」の視座のとり方だろう。この一言で言下に田園風景がひろがり、またその風景のなかにこの歌の主体が確かに立っている感じがしてこないだろうか。

 

同様に次のような歌にも、風景の確かさを感じることができるだろう。

 

  少女らに雨の水門閉ざされてかさ増すみづに菖蒲(あやめ)溺るる

  百合沼にゐもり掬ふとさやぐ子ら数多なとりそ滅びるらむよ

 

 「菖蒲」の歌は、歌一首を読むと実際にそういった風景を身体で感じとっている気がしてくる(そして、おそらくこの作者もこういう風景を体験したことがあるのだと思う)。またイモリ掬いの子どもたちの群れも、どこかでそういう風景を見たことがあるような気がする。

 

体感とコトバのあいだで、そして虚構のリアルと儚さのあいだで揺れながら、歌一首の世界を立ちあげてくる。そこに、『水村』の魅力がある。

 

もっとも、いままで挙げた歌は歌集のなかでは比較的制作が早い時期(掲出歌は1974年、そのあとの二首は1971~1975年作)のものである。逆年順に編まれるこの歌集の前のほうをみると、虚構はもっと先鋭的だ。

 

  盲鮒(めくらぶな)ひのみやぐらの木にのぼり押しあへば水は野をひたしくる

  太陽は山上にあそぶ子供らを食べ鳥どもを食べてかくれぬ

 

連作題に付される制作年代によれば前者は1979年、後者は1977~1979年の作。「盲鮒」の歌は押し合いながらやぐらに昇ってくる鮒の強烈なイメージをもって、洪水に野がしずむという物語を成立させている。「太陽」の歌は、「童話」という題の一連にある。太陽が「子供ら」や「鳥」を食べるとは、沈みゆく太陽がその光のなかに子供や鳥をのみこんでいく様子をいうのだろうか。そういう風景を描いているとしても、太陽の存在感が不気味なほどであり、神話的な世界観を見せている。

 

編集部より:『水村』が全篇収録されている『松平修文歌集』はこちら↓

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