寒へ向かふ季節(とき)にして軒の干し柿は含羞の粉(こ)を加へゆくなり

佐藤通雅『強霜(こはじも)』

 

寒さが厳しくなる季節、ふと、軒に垂れ下がっている干し柿を見かけた。自分の家か、他人の家かは解らないが、そうした昔からの風習を見て、寒のまさりゆく季節を様々な角度で再確認している。「寒」という初句の響きがなんだか、歌中空間のもの静かな色彩を思わせる。そんな灰色系の風景に、朱赤を点す柿が下がっているとしたら、実に印象的だ。吊るし柿が時には寒風に揺れながら、冬の世界に彩りを添える。

 

「寒へ向かふ季節」だから、まだ完全に冬になってはいない。だからこの柿も、完全に乾燥しきったわけではないのだろう。まだかつての色合いを残しつつも、だんだんと白い粉を噴く。これは柿の糖分が結晶化し、表面に浮き出たもの。柿が吊るされてから粉を噴くまでの時の移ろいが感じられる。それを作者は「含羞の粉」と表現した。「含羞(がんしゅう)」とははにかみ、はじらいの意と辞書にはある。しかしそれだけに留まらず、日本人独特の精神構造にあるものを指してもいるような言葉だ。素朴な吊るし柿の姿に、日本文化にある奥ゆかしさを見てとったのだろうか。また、柿の朱はほんのり赤らむ頬を連想させ、白い粉は薄く刷かれる化粧を思わせもする。

 

  みちのくの寒さに年々負けさうだびしばし虹の張りあひて朝

  大王(おほきみ)のごとくに一夜渡りたる月が声なくすとんと落ちぬ

  近いうちに必ず来ると予測されし地震の寸胴(ずんどう)のやうな雲だな

 

吊るし柿が日本古来の風景を表すのだとしたら、含羞の薄れゆく現代を生きる作者は、その原風景に含羞の幻を感じたのかもしれない。含羞を文化として見つめ続けたのは太宰治だったが、「みちのく」という場所と「含羞」はどうしても結びつく。例えば上記の歌にもどこか、〈勝者にあらず〉という含羞の精神がある。一夜を輝くことも、すとんと転落することも、大王の宿命なのだろう。最後の歌は2007年の作で、はからずも予言的な一首となったが、地震の予感に満ちた雲を見てしまう精神は、もしかしたら含羞にも近いのかもしれない。

 

 

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