全身にゆきのにほひをまとひたるこどもがをりぬ。ほら、わたくしが。

小島熱子『りんご1/2個』(2011年)

作者は金沢生まれ、しかしもう長く金沢を離れて暮らしているようだ。『りんご1/2個』にはふるさとを歌う歌が多くある。

 

  川の面にめまひのやうに消えてゆくああふるさとの雪こそ忘我

  母が わが手に触れつつさはらせてねと言ひし金沢のあの秋の日よ

 

金沢の町は、浅野川と犀川、2本の川が流れる。1首目はそのふるさとの川に降る雪を歌う。「めまひのやうに」と雪を描写し、その雪が「忘我」であると結句で解き放つように言う。ふるさとに触れてうごめく感情の不思議さが伝わってくる歌だ。におい、空気、肌触り。身体にしみこんだ記憶がつき動かされ、「めまひ」や「忘我」という言葉が出てきているように思う。2首目は母と暮らしていたころの記憶だろうか。「母が」の後に一字空いているのは、絶句の深さを思わせる。「さはらせてね」という母の言葉が切ない。ふるさとをめぐる追憶の先に、言葉にならない感情があり、その思いを前にして作者が立ち尽くしているところにこれらの歌は生まれているように思われる。

 

掲出歌は、こどもの「わたくし」がリアリティをもって現在の「わたくし」に迫る。ふるさとの雪は、独特のにおいがあるのだろう。水っぽく、土っぽく、冷たいのに子供の体の熱と合わさって妙に熱いような感じもする、そんな雪のにおいを思い浮かべた。結句の「ほら、わたくしが。」で突然「こども」が「わたくし」であるとされることに驚かされる。作者も同様に、自分のなかに息づく「こども」の「わたくし」との邂逅に目を見張っているのではないだろうか。身体に浸みとおり、現在の私を温めもする「ふるさと」がこの歌集の源である。そして、「ふるさと」の歌は、技巧の先に必ず絶句の感があり、言いようのないさびしさと切なさを伝えてくる。

 

以下、私の好きな5首である。

  松飾りなき歳旦の庭土に亡きおとうとのこゑか 霜柱

  この襖あければそこに亡き母が端座してゐん 開けることなし

  キッチンに置きつぱなしの包丁の錆いろの悲苦西日にひかる

  さがしものあるといふべくつつかへてつつかへて階下に雨戸あくる音

  月光がただつくねんと照る坂に電信柱の影がねころぶ

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