見せあうものは悲しみのたぐい黒衣きて雪野を遠く来る人に逢う

百々登美子『盲目木馬』

人と逢うことには、様々な目的がある。恋のためあったり、生活のためであったり、喜びのためであったり、怒りのためであったり。野に一面の雪が降り積もった冬のある日、誰かと逢ったのだという。そして、二人してお互い見せ合ったものは、「悲しみのたぐい」だったという。「悲しみのたぐい」とは何だろう。悲しみそのものとは、少し違うようだ。悲しみに類したもの、という言い回しにはどこか、直に掴むことのできないほどの悲しみを持てあます心があるかもしれない。

初句、二句の言い放つような表現には、自嘲的な悲哀がある。所詮、私たちの逢いは、このようなものなのだ、と。〈私〉と〈貴方〉が見せ合うのは己の姿、つまり、生活の中で染み付いた癖や仕草、口調や表情、考え方に他ならない。その一つ一つが「悲しみのたぐい」、すなわち、生きる悲しみの表象なのだ。そして、その総体として〈私〉がある。

しかしそれでも、人に逢わねば生きられない。「黒衣」は喪に服すイメージを、一首の中に呼び寄せる。「悲しみのたぐい」を携え続ける私たちの生を悼むかのようだ。「黒衣」を着るのは〈私〉か、それとも、「雪野を遠く来る人」だろうか。どちらともとれるが、「遠く来る人」が着ていると考えた方が、純白の雪景色を黒い一点となった〈貴方〉が旅する、鮮烈なイメージが歌に生まれる。黒い点としての〈貴方〉が、〈私〉を目指し、雪原を横切ってゆく。「悲しみのたぐい」を携えて。

  涸れている噴水のかたえすり剝げし木馬盲目に塗りかえらるる
  見とおせぬもの国にもわれにもある冬に口まるくあけ土管がならぶ
  父の死も母の死もはるけき夜なり玻璃の内を浮遊しあえる風船にあう

いずれも悲痛な感覚がある。〈悲劇的〉と言ってもいいかもしれない。涸れた噴水の脇で、木馬は眼を塗り潰される。空虚な土管の向こうの冬陽は見通せるが、未来は見通せない。そんな生の中で、父母の死を忘れたわれらが浮遊する。生きることはおのずから悲劇を内包する。その痛みを研ぎ澄まそうとするとき、歌はかくも美しい。

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