家族には告げないことも濃緑(こみどり)のあじさいの葉の固さのごとし

吉野裕之『ざわめく卵』(2007年)

        ※吉野さんの「吉」は本当は1画目が3画目より短い方の「ヨシ」である。

「家族には告げないこと」の「こと」は二通りに読める。一つは、家族には告げないその「内容」である。もう一つは、「家族には告げない」という行為そのものを指す、という読みだ。いずれにしても、その「こと」は、「濃緑のあじさいの葉の固さ」に喩えられ、歌い手の心の陰翳を伝える。私は、どちらかというと後者で読みたいと思った。「も」があるからだ。「家族には告げない」という振る舞いのほかにも、「私」は一人でそっと胸にしまった言葉や、一人でそっと行ってきたことがいくつかあるのだろう。それらの行為が、青く厚いあじさいの葉に似た感触を「私」の心に残している。そのようにして陰翳は重なり、心の襞が増えていくことを思わせる。

 

  秋風のいろを問われて見上げたり線路を跨ぐ小さな橋を

  庭に立つ父の背中の丸みさえ師走の午後の日射しが包む

 

掲出歌に読みとれるような陰翳は、心に一瞬流れるのみで、歌にしなければのこらないものかもしれない。作者は日常に流れるそうした感情のかすかな流れを捉え、透明感のある言葉で歌にする。同じ歌集から二首を引いたが、掲出歌と同様、季節の感覚や事物が、感情のかすかな流れを確かな言葉にするのに一役かっている。季節の扱い方にべたべたしたところがなく、軽やかなところも特徴的だ。

 

  挿し木して父のことばを待っている四月の庭は広いと思う

  ぼくたちのこの感情が怒りならば凪ぎゆくまでの春のあわゆき

  一匹の蜂が静かに入ってきてわが読む書(ふみ)を見下ろしている

  あの頃の空の深さがここにあって君が指差す これはひなげし

  ダアリアが花を咲かせるかたわらを影を乗せたる自動車が過ぐ

 

『ざわめく卵』以降の作品群を収めた「胡桃のことⅡ」(『セレクション歌人33 吉野裕之集』2008年刊)からの5首である。これらの歌から、日常を静かに見ている「目」のようなものを感じる。「はじめてのきみの仕草と万緑の立ちゆくさまと 神が見ている」という歌もあるのだが、この歌からキーワードを借りるなら、静かな「神」が日常にひそやかに流れる感情を見つめている感じなのである。1首目では、挿し木して待つ「私」と父が、それぞれの感情をもちながら「四月の庭」に包まれている。2首目の「春のあわゆき」は、「ぼくたち」の曖昧な感情をやさしくを受けている。3首目の「蜂」や5首目の「影を乗せたる自動車」はひそやかな存在の気配を示す。4首目は、一字空けての「これはひなげし」をどう読むかむずかしいところだが、「あの頃の空の深さ」を共有する二人が、いま「ひなげし」という新しい風景を一緒に見た、ということだろうか。希望があるようで、しかし悲しい感じもするのは、「これはひなげし」と確認することで、「空の深さ」が必ずしも「あの頃」とそっくり同じではないことに気づかせるからか。いろいろに読めそうだが、感情は述べず、「これはひなげし」に二人の心の襞を預けている。これらの歌には、「『私』が主張する感情」ではなく、「見つめられた感情」の透明感と美しさがある。

編集部より:吉野裕之歌集『ざわめく卵』はこちら↓

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