野口あや子『くびすじの欠片』(2009年)
強さと弱さは背中あわせ。
「誰のものにもなれない弱さ」はすなわち、誰のものにもならない強さ、でもあるのではないか。
そういっしゅんおもったのだけれど、同時に、たよりなくはかない存在のわたしを感じた。
なぜだろう。
誰かのものになる、とはどういう情態か。
所有する/される、という概念はまったく好きではないが、あえてこの歌をかんがえる。
おもうにそれは、誰かに服従するというおそろしいことではなく、自分の内面をさらけだし誰かの腕に飛び込んでいく、ということなのではないか。
自分をさらけだすというのは勇気がいる。自らの存在に自信をもち、ぶれないという確信がなければできないことだ。
いっぽうで、誰かとふかく関わると、傷つくこともふえる。だから誰かの腕に飛び込むこともできない。たったひとりで佇むしかない。だから、「弱さ」なのだ。
いつまでたっても「誰のものにもなれない」。
朝顔は、蔓をぐんぐんのばし、朝ごとにたくさんの花を咲かす。風が強く、陽が当たりすぎたりするとすぐ萎えてしまったりもする。
けれど、どんな朝にもあたらしく咲きつづける。
いつしか、ある夏の朝、わたくしはほんとうに強くなれるだろうか。
待ち受けを空から海に変えている会いたくてしかたがない夜である