慈姑(くわゐ)といふ字がいいなあと思ひをり慈姑のやうな青を着ようか

石川不二子『ゆきあひの空』(2008年)

野菜売り場に「クワイ」の並ぶ季節である。年に一度、おせち料理で出会うという印象のあるクワイだ。球根から芽が出た形が奇怪かつ愛らしい。ただ、クワイになぜ「慈姑」という字をあてるのか、むかしから不思議に思っていた。どうも定説はないようだ。「鍬」の形に似た「芋」だから、「クワイモ」がなまって「クワイ」になったという説などは聞くが、「慈姑」という字の当て方の由来は謎である。はたして、「姑を慈しむ」のか「慈しみ深い姑」なのか。字面が想像を呼び、その不思議な形と相まって妙に存在感がある。

 

掲出歌は、その「慈姑」に親しみを感じているようだ。『ゆきあひの空』の時点で七十歳になったという作者。青みを帯びる慈姑に着目している。慈姑の青は単なる青ではなく、銀色を沈めて底光りするような青である。そのような青の衣服をまとおうか、というのである。「姑」を「しゅうとめ」として想像を膨らませるのもありだが、「姑」の字源をたどれば「古い、女」である。長く、時を重ねて生きてきたことを思い、一人の女としての自らの望む在り方を「慈姑」に重ねている、と私は読み、上句のゆったりとした口調と、「青を着る」とした洒落っ気がそれこそ「いいなあ」と思った。

 
  痩せやせて四十五キロの夫の傍(かたへ)雌かまきりになつた気がする

  浮腫いでし夫の手撫でて心にいふおとうちやん明日は来られないけど

  病院の暁に息止まりゐし夫(つま)こそよけれ我もしかあれ

 

夫の死の前後を含む歌集だ。夫の様子を歌い、夫と関わる折々の心を歌う。1首目のように、夫の姿がかえって「我」の姿をくっきりと見せるところが印象的だ。1首目の「雌かまきりになつた気がする」は、痩せる夫を見て「まるで自分が、雌かまきりのようにつがいの相手の命を自らの糧として食っているようだ」と思うのである。夫は痩せてゆき、自分は元気でいるという命の不思議を、腹を据えて見つめている。

 
  死にゆかむ蜂か地面をふと飛びてまたしづまりぬ霧深き朝

 

死について、この1首が心にのこった。地面にじっとしていた蜂が、弱々しく、低く飛び、また地面におりてうずくまる。それを「しづまりぬ」といっている。この景色を霧の深い朝のこととして、蜂の姿も霧のなかに紛らわせて、日常にありながら、日常を遊離した景色を生みだしている。死の間際の命の姿を、静かに観照する一首だ。

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