積みてある貨物の中より馬の首しづかに垂れぬ夕べの道は

玉城徹『馬の首』

道端に貨物が積んである。これはどんな貨物だろう。どうやって運ばれてきたのだろう。その貨物の中から馬の首が垂れている。窓があいたコンテナなのか、無蓋の荷台なのか、それとも檻なのだろうか。「積みてある」という表現は、この貨物が何か、箱状のもののように思わせる。「中より」という描写も、やはり箱の中よりにゅっと馬の首が出ている様子を思わせる。となるとこれは、例えば有蓋車のような列車の貨物などが想像できる。馬は外を見ると興奮するため、鉄道輸送する場合は、透かしのある家畜車ではなく、密閉された有蓋車を使用したという。読みの可能性として、ありうるだろう。

箱の窓から突き出た「馬の首」はまるで、この世界に突如訪れた闖入者のような、不可思議で威圧的な存在感を放っている。それが馬全身ではなく、「馬の首」という切断された一部であることも、異様な存在感を高めている。その闖入者、すなわち〈他者〉がどのように〈私〉をおとずれたのか。その様子が「しづかに垂れぬ」という表現に込められている。首はうなだれるものだが、「馬の首」が垂れる、とは、どこかシュールレアリスティックな受容を思わせたりもする。ダリの絵あたりにありそうな感覚だ。

こうして、「貨物の中」というあちら側から、「夕べの道」という〈私〉がいるこちら側へと、「馬の首」が「しづかに垂れぬ」という形で闖入してくる。この空間と存在の相互関係の中に、なんとも言えない緊張感がみなぎってはいないだろうか。これを僕は、存在の放つ〈ダイナミズム〉と呼びたい。玉城の歌は、こうした存在のダイナミズムを、精緻な修辞の力で、眼前の世界から掘り起こし、歌の中に固定させる。その歌を読むとき、私たちは普段気付かない、様々な存在の確かさを知ることになり、何一つ疎かならざるこの世界の在り方に、思わず感動する。

    夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし

この世界の、この瞬間、何が動き、何がこちらに訪れてきたか。それを鋭く察知し、掴み取るのが玉城の歌だ。そして、その察知の仕方を表現することは、馬の首や帽子がどのように存在していたのかを察知した〈私〉の精神の在り方を描くことでもある。夕べの道、夕ぐれ、その奥には、対象に対峙する〈私〉の姿がある。

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