雑然たる日々のすきまに見えきたる光の如く年を迎うる

高安国世『光の春』(1984年)

『光の春』は第十三歌集、高安国世の最後の歌集である。その中から、「年初」と題する五首のうちの冒頭の一首である。歳晩の日々も、日常であることにかわりはない。その日その日を雑務に追われながら過ごしていく。あえぐように過ごし、どうにかこうにか新しい年を迎えるに至ったという「やっと」の思いが、「日々のすきまに見えきたる光」という言葉に表れている。慌ただしさの一方で、時をかみしめる感慨がにじむ。さらに、「光の如く」というのは、希望を思うからだろう。何かが目覚ましく変わることを期待するわけではなく、新しい年の雑然たる日々を、恐れずに、また生きていくことを思うのだ。「雑然たる日々」を肯定する心がこの歌にはあるだろう。

 
  かすかなるめまいのきざしこらえ行く冬土手砂利に陽のきらめきて

  雪のあと日ざしの春を満身に浴びて歩めり濡れし川土手

 

同じ歌集の最後の一連「病後冬日」から二首。高安は1983年11月に胃の大部分を切除する手術を受け、歳末に退院する。その後の歌である。1首目は、めまいのきざしをこらえながら土手道の砂利をいく。土手というと、川が目に入りそうなものだが、高安はめまいのゆえか足元とそこからそんなに遠くはない辺りを見ているのである。その身めぐりのごく狭い視野で、砂利にきらめく陽を見ている。2首目は、早春の日ざしを喜ぶ心があふれている。「雪のあと」と素直な口調ではじまり、「日ざしの春」には、日ざし自体に春があることを肌で感じている様子が表れている。雪のあとの、みずみずしい春の光への憧れが込められた一首である。いずれも、とびぬけて特徴のある歌というわけではないが、足元の小さな陽の光が病後の目に映り、ただそこにある日ざしが身を包んだことが、この上なく重要であるように私には思われる。

 

2011年が終わっていく。この一年を生きてきた私たちにとって、「日々のすきまに見えきたる光」という言葉は願いであり、また、諦めてはいけない意志でもあろう。今日の高安の歌のように、先人のなにげない一首が、いまを生きる私たちの心をそっと支え、「生きよ」といってくれることがある。それが正しい読み方なのかどうかは分からない。が、歌の言葉が時を超えて人の心に響くというのは、つまり、そういうことではないだろうか。

 

 

*一年間、読んでくださり、ありがとうございました。誤読も多々あったかもしれず、書くほどにあらわになる自らの拙さを恥じるばかりです。が、読者の皆さまがいる、ということに支えられました。また、黒瀬さんの選ぶ歌と文章に大きく励まされました。本当にありがとうございました。皆さま、どうかよいお年を。そして、来年もよき歌、よき日々を!

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