自転車を駆(か)るゆふぐれに天空にふたこぶ駱駝うまれては消ゆ

                                                                             外塚喬『草隠れ』(2011年)

 

  晴れた日のゆうぐれ、何の用事か、あるいは特に目的もなく主体は自転車を漕いでいる。「天空」にというのだから、視界の開けた場所に出たのだろう。空を見上げるとふたこぶ駱駝が生まれては消えて行ったという。ふたこぶ駱駝とは何かの象徴としての意味があるのだろうか?おそらくそんなことはない。雲がふたこぶ駱駝のように集まって、やがて霧散して行ったとも考えられるが、そう読むには歌の中で過ぎてゆく時間が短か過ぎるような気がする。この歌、ただ単に空にふたこぶ駱駝のようなものが見えたということではないか。光の具合か短い白昼夢か、見えたふたこぶ駱駝はすぐに錯覚であると気付くのだが、いっときであれ感じてしまった駱駝の存在のリアリティーが作中主体と読者の脳裏に残るのである。ふたこぶ駱駝には文脈や因果、意味を考えない方が良い。ひとこぶではなく、ふたこぶである理由はおそらくない。空を見上げた刹那にふたこぶ駱駝は理由もなく「見えていた」のであり、やがて一瞬のうちにそれは錯覚だと了解された、そのときの気分、感覚を掬いあげた歌ではないか。実体のないはずのふたこぶ駱駝に、即物的な手触りが感じられるようでおもしろい。

 

鳴く蟬のこゑをさまりて熱風に一樹一樹のふくらみて見ゆ

山鳩のこゑは女人のこゑにして大和の国を行くおもひする

白き猫すうと消えて椿咲くあたりに猫の匂ひとどまる

 

 何か特別な場面や風景があるわけではないのだが、なんとも言い難い気分や感覚が手渡される歌が何首かある。三首目、椿の咲くあたりに去って行った猫の匂いが留まっているという。当然ながら椿の周辺の匂いを嗅いで猫の匂いだという判定をしたのではない。椿という庭隅に咲いていそうな暗い花、そんな花の辺りにならすっと消えていった猫の匂いも残っていそうだ。嗅覚だけではない五感すべてから察知された、猫の残した気配だと思う。意味や因果を少しだけ超えたところの気分が伝わってくる。

 

みづからの二本の足をはげまして子であるわれに近づきてくる

引きこもり老人にならぬ母の押す手押し車は春の野をゆく

平均寿命が一、二年といふ雀きて怠惰な胸のうち覗きこむ

浮き上がりくる緋めだかよなまけ癖ぬけなくなりて六十半ば

 

  歌集では、老いた母の歌や自らの老いを歌った歌も面白かった。「みずからの二本の足をはげまして」「なまけ癖ぬけなくなりて」などは柔らかなユーモアであり、ユーモアが意味になんとも言えぬ実感を付加して、一首を読者に届けている。

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