キャベジンの空き箱ひとつ抱えつつ網棚はゆく電車に乗って

吉野裕之『Yの森』(2011)

 

ぱっと歌を見た瞬間、電車のなかで空き箱を抱えている「人」を思い浮かべてしまう。「わざわざ外で胃薬を買って開封したところをみると、わりあい差し迫った事情があったのだろうな……」などと同情しかかってから、自分の解釈がどこかおかしいことに気づいて、もう一度読み返す。そう、空き箱を抱えて電車に乗っているのは、「網棚」なのである。胃薬の中身を取り出した人物は、たぶんもう降りてしまっている。空き箱を抱えた網棚、を乗せた電車が、淡々と走り続けているだけだ。

電車の付属物である網棚を「電車に乗って」いると表現した例は他に見たことがないが、この歌の面白さは網棚を擬人化していること自体よりも、そうすることで「人の不在」が際立つ、というところにあると思う。胃薬の箱を置き去った人物はもちろん、車内で空き箱を目撃したはずの語り手さえ、ここではほとんど気配を消している。空き箱、網棚、電車、三重に空(す)いている空虚な時間。

 

吉野裕之の歌は、一見すると平明で、ラフスケッチのようであるにもかかわらず、きちんと解釈しようとした途端に奥深く見えてくる。家族や職場を題材にした歌も多いのだが、実人生についてはアウトラインしか提示されない。あくまでも「吉野裕之」ではなく、イニシャル「Y」を取り巻く世界が舞台なのだ。

 

  打楽器を専攻したという人が玄関にいて母と話せり

  アンテナがたくさん立っている町を過ぎてもうすぐ海の辺の駅

  留守番をしている人に聞いてみる課長が好むたとえば動詞

 

「打楽器を専攻した人」とは、ずいぶん具体的なプロフィールだが、どんな年恰好の人なのか、なぜその人が家の玄関に来ているのか、といった点は(おそらく意識的に)語り落とされている。「アンテナがたくさん立っている町」ってどこだろう。目の付けどころが変わっているのでなんだか特殊な町のように思えるが、想像しているうちにだんだん日本中どこでも当てはまるような気がしてくる。訪ねていった課長が不在で、留守番の人に課長のことを聞く。シチュエーションとしてはよくありそうだが、そのタイミングで課長が好む「動詞」を知ってなんとする。

このように、具体と抽象の境目を自在に行き来し、日常の風景をさらりと哲学に変えてしまうところが魅力である。

 

『Yの森』には1996年から1999年にかけて、吉野裕之が30代後半の頃に作った作品が収められている。あとがきから、彼の短歌観を端的に表している部分を引用しておこう。「あなたは何を引き受けているのか。この問いに対して、常に自然体で応えていくこと。その積み重ねが、短歌を現代アートとして機能させるための基本ではないか。つまり、開いていること」

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