降る雪も過ぐる時雨も沁まざれば我が深淵のかたち崩れず

安永蕗子『魚愁』(1962)

 

降り続ける雪。ぱらぱらと降っては過ぎてゆく時雨。皮膚を濡らし、身体を冷やすそれらは、しかし、「我」の心の芯までは沁み込むことがないのだという。

「深淵」は、「底知れない」という比喩的な意味でとってもいいが、「我」のなかに深く水をたたえた場所があると捉えると、より美しい。「雪」「時雨」「沁」「淵」と、水の縁語をつなげているが、「かたち崩れず」という言葉から連想するのは水(液体)というよりも固体。波紋一つ生じさせない静かな淵は、孤独だが、決して逆境に屈しない強靭な精神を感じさせる。

かっこいい。私の心なんぞは、ほんのお湿り程度降っただけでもちゃぷちゃぷと波立って、落ち着きのないことこの上ない。「沁まざれば」という冷静、かつきっぱりとした否定の強さに、かくありたいものだなあ、としびれるばかりである。

 

蛇足ながら付け加えれば、「沁まざれば」「かたち崩れず」と言い切れるのは、語り手が鈍感だからではない。むしろ、降る雪の激しさ、時雨の寂しさに人一倍敏感だからこそ、心の深淵を透明に保ち続けることができるのだ。

 

  ひそかなる風の動きを見るごとく群牛ひしと吾をさけゆく

  へだたりて棲む孤独ゆゑ星てれば互みの湖の底ひかるのみ

  何ものの声到るとも思はぬに星に向き北に向き耳冴ゆる

 

他者と近しく交わることのできない孤独をひしひしと噛みしめながら、感情に溺れず、格調高く歌い上げる。誰からの声も届くはずないと認識しながら、それでも心を閉ざすことなく、常に遠いところに向かってアンテナを張り続ける。どの歌も、揺るぎない美意識に貫かれていて、読んでいる私の背筋まで、ぴんと伸びてくるような気がする。

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