ダイヤモンドゲームの駒を青と決めいちばん遠い場所にゆく旅

やすたけまり『ミドリツキノワ』(2011)

ダイヤモンドゲームの駒は赤・青(または緑)・黄色の三色。ゲーム盤は6つの頂点を持つ星の形をしており、プレイヤーは、他のプレイヤーの駒を上手に飛び越しながら、星の頂点から反対側の頂点へと、自分の駒を進めていく。誰でも一度くらいは遊んだことがある、シンプルで楽しいボードゲームである。

ゲーム盤の端から端まではわずか数十センチ。しかし、「いちばん遠い場所にゆく旅」と言われてみると、まるで宇宙旅行のように果てしなく見えてくるから不思議だ。自分の「駒を青と決め」たプレイヤーは、ゲームが始まるやいなや駒たちに感情移入してしまい、星から星へ、命がけの旅を続けているのだろう。

急いで付け加えるが、この「旅」を「宇宙旅行」だと感じたのには、きちんとした根拠がある。『ミドリツキノワ』には、誰もが子どもの頃に体験したであろう出来事や、児童文学からの引用がさりげなく埋め込まれており、連作単位で読むと、一首一首の輪郭がさらに濃くなる仕掛けになっているのだ。

たとえば、「ダイヤモンドゲーム」の歌が収められた連作「天文館につづく坂道」の場合。

からすうりほどのあかりを孵卵器のなかにのこして夜道を帰る

あたらしい砂利のあいだで自転車のタイヤの幅の銀河は育つ

これらの歌は、一首一首独立して読んでも十分美しい。孵卵器の中で温められる卵の薄い殻は確かに「からすうりほどのあかり」を放っているかのようだし、砂利道につけられた轍を「銀河」と見立てているのも、ありそうでなかなかない表現だ。

しかし、扉ページに記されたエッセイと、

「博士、居てくれたのですね」全集の十二巻めに銀河の帯が

辺りを併せて読むと、連作全体に宮沢賢治の童話、特に『銀河鉄道の夜』からの引用が散りばめられていることが明らかになる。「博士」とは言うまでもなく、『銀河鉄道の夜』の初期形のみに登場するブルカニロ博士のこと。星祭の夜、カムパネルラたちが川に流しに行くのは烏瓜の明かりだった。

これを踏まえて、もう一度「ダイヤモンドゲーム」の歌を読み返してみてほしい。ゲーム盤の上を行く青い駒。カムパネルラと共に銀河鉄道で旅を続けるジョバンニ。そして、ボードゲームに熱中し、宮沢賢治を愛読する夢見がちな少女。その三者が、一首の中で重ね合わされ、一心に「いちばん遠い場所」を目指しているように感じられないだろうか。

「ダイヤモンドゲームの駒を青と決めいちばん遠い場所にゆく旅」への2件のフィードバック

  1. 「短歌研究」の合評にて、小池光氏らが「ミドリツキノワ」に対し、「内側で完結している」との辛口の評を寄せました。その評についてどの様な感想をお持ちですか? よろしければお教え下さい。

  2. コメント、なかなか気づかなくてごめんなさい。

    「短歌研究」2011年10月号の作品季評ですね。
    興味深く拝読した合評でしたが、小池さんのご意見は、
    (1)ハイティーンのような、自閉したイメージがある
    (2)実年齢と作品のイメージが合わない。生活感が見えない
    (3)読者とのコミュニケーションを拒否している
    という3点が当たり前のように結びつけられているところに、違和感がありました。

    まず、(1)について。一冊を通して読んだ時、作品世界が(良くも悪くも)一定のところに固定されている、という印象は私も持ちました。ただ、やすたけさんの作品は、少女のような文体を駆使していながら、意外と風通しがいいので(作中主体をある程度突き放して作品化できるタイプだからでしょうか)、第二歌集以降で、もっと幅広い世界を見せてくれるのではないかなあ、と楽しみにしています。

    (2)に関しては、そもそもそこを批判することに何の意味があるのか、理解に苦しみます。短歌の「私性」をあまりにも狭く捉えすぎていらっしゃるように思います。

    また、(1)や(2)の問題がそのまま(3)につながっているとは考えられません。自分の「読みのコード」で読み解けないものを「読者とのコミュニケーションの拒否」と断じるのは、読者側に問題があるのではないかなあ、と。

    簡単ですが、この辺りで。

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