唐突に物干し竿は現れて隣家に人が住み始めたり

                          荒井直子『はるじょおん』(2005年)

 

 内容はシンプルで、空き家だったお隣に家族が引っ越して来たということなのだが、歌いぶりがなんとも面白い一首である。「唐突に物干し竿は現れて」という上の句は、まさに唐突である。歌を頭から読んでゆくとき、最初は隣の家云々という情報は読者にないから、「唐突に物干し竿は現れて」というのは一体どのような状況だろうと一瞬混乱する。読者の頭の中では何もない空間に物干し竿が突然現れるのである。その上で、下の句までが視野に入ったとき、ああ、隣に人が引っ越して来たのだと納得する。このような順序は案外大切である。短歌は意味を一瞬に読み取るには長く、かといって小説のように行きつ戻りつしながら読むには短い。ふた呼吸くらいで読んでいるのだと思うが、歌に書かれている事柄を読者が認識してゆく順序は、作者が歌を作ろうとした時の体感に重なってゆくような気がするのである。読後の感触に大きな影響を与えるのではないだろうか。

 この歌では、主体は物干し竿の存在を見て初めて隣家の引っ越しに気付いたようだ。おそらく引っ越しの挨拶もなかったのだろう。事実はどうであれ、読者は作品からそのような想像をするのである。想像を含めて、歌のリアリティーであり、作品の力であると私は思う。

 

 

鈍器もて人打つごとき音をたて自動販売機のジュース落つ

 

 自動販売機のジュースが落ちる音は案外に大きく、驚くことがある。それを「鈍器もて人打つごとき」と認識したところがおもしろい。読者それぞれが記憶に持っている、あの「ごんっ」という音が再生されるだろう。

 

 『はるじょおん』は著者のほぼ二十代の作を収めた第一歌集。文体はどちらかといえばシンプルで散文的な作も多いのだが、ものの認識の仕方や捉え方の面白みが決まった歌はなかなか鋭い。

 

秋深しサランラップを巻きつけるように布団にくるまって寝る

 

痩せっぽちの君がくたりと折れ曲がり銀色の自転車に乗って来る

 

 「サランラップを巻きつけるように」「くたりと折れ曲がり」には、笑いがあり、一首目などは仕事に疲れている一連の中にあるのだが、救われるような軽みがある。

 

 

超音波写真の顔を妖怪のようだなどと汝の父は言いたり

 

ぐにゃぐにゃのみどりごにも背骨はありて湯に入れる時固く手に触る

 

大人より関節が二つ三つ多くあるように見えるみどりごの腕

 

子の背をなぞっておれば蛤の殻ほどに肩甲骨はあり

 

群れている中学生・高校生が怖いわけてもジャージ着たるが

 

 子供の歌は、どこか即物的で捉え方に発見があり注目した。一首目は胎児の超音波写真のこと。妖怪のようだなという感想は当の妊婦にとっては意外なものかも知れないが、義父の捉え方にはそれはそれで温かみがあるのだろう。義父の一面のスケッチにもなっている。(追記、この歌の汝は胎児のことであり、汝の父とは作中主体の夫のことではないかという指摘を受けました。確かにその方が自然な読みのように私も思います)。「みどりごにも背骨はありて」「関節が二つ三つ多くある」「固く手に触る」「蛤の殻ほどに」は発見であり、体感である。体感には嘘をつかない人らしく、最後の歌もおそらく感覚に正直なのだろう。実直な何かが伝わってくる歌集である。

 

 

 

今日で同学年歌人シリーズ?は終わりです(^o^)丿。

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