鼻孔(はな)に入(い)る異物を瞬時に出ださんと赤子は顔のまなかを縮む

沖ななも『三つ栗』(2007)

 

生まれて間もない赤ちゃんはまだ、鼻をかむ方法を知らない。いや、それ以前に、今の状況がよく理解できていない。顔の真ん中辺りに何かが入ってきて、すごく苦しい。こんなのは、嫌だ。そこで、力一杯顔を歪め、「それ」を外に追い出そうとする。

「顔のまなかを縮む(=縮める)」がユニーク。赤ちゃん特有の、本能的な顔の動かし方が端的に表されている。

同じ場面を、たとえば「鼻に入るミルクをすぐに出ださんと」というふうに、和語やカタカナ語を使って柔らかく表現することもできるだろう。しかし、ここでは、「鼻孔」「異物」「瞬時」という漢語の硬さと、赤ちゃんの他愛ないしぐさのギャップが、明るいユーモアにつながっている。

 

沖ななもの歌は、「理屈」の歌だと思う。「理屈っぽい」とか「理屈が勝っている」とかいうと、普通は否定的なニュアンスになるが、沖の場合は、理屈によって歌に太い芯を通すようなところがある。

 

  水面にまず背骨からもりあがり目が出て鼻が出て河馬になる

  左手が右手を打てば右の手の甲に骸となりている 蚊が

 

一首目は、鼻まで出てきて初めて「河馬になる」というところに、河馬という動物の変てこさがよく出ている。二首目は、打った蚊を確認するという日常的な状況を、「左手が右手を打てば右の手の甲に」と回りくどく説明しているところに、不思議なおかしみがある。どちらの歌も、確かな観察眼に裏打ちされており、きっちりと理屈が通っているので、読みがぶれない。

 

  無味無害無芸無情のわれが行くたそがれはやきだんだら坂を

 

あれもない、これもないと「無」を重ねた、言葉遊びのような一首だが、その謙遜(?)のなかに「無知」は入っていないところに注目したい。味も害も芸も情もない「われ」は、その知性の命じるまま、暗い坂をゆっくりと下って行くのである。

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