凍死せし犬蹴とばせば木のごとき音を放ちて雪にうづもる

                            時田則雄『北方論』(1981年)

 

 一首だけを読むと、異様な光景のようにも思えて怖い歌である。作者は歌人としての活動とともに、北海道帯広での農場経営に一貫して取り組んで来た人。厳しい自然の中での生活を詠んだ歌も多く、引用の一首も実景あるいはそれに近いものであろうことが、想像される。

 私自身は凍死した犬に出会ったことはない。しかしながら、この歌にどこかリアリティーを感じてしまうのはなぜだろう。それは例えば「木のごとき音を放ちて」という比喩によってもたらされるのではないだろうか。普通の死に方をした犬の体は「木のごとき音」を放つことはない。「木のごとき音」という切り取りによって、犬が凍死という異常な死に方をしたという光景が読者のなかに浮かび上がってくる。それは音だけの比喩にとどまらず、犬の体が木のようにカチカチに凍っている質感までが想像される。実際にはしたことのない経験なのに、実感のようなものを感じてしまうのである。短歌におけるリアリティーとは現場にあるのではなく、表現による切り取り方にあるのではないかと思う。この比喩が切り取るリアリティーが、凍死した犬を蹴とばしたときの作中主体の心境まで導き出しているのだろう。たまらぬ寂しさと無残さがある。

 

死後もなほまなこみひらく魚を裂き魚のこころを探してゐたり

半顔を濡らして蛇口を咥ふとき地下水たちまち俺の血となる

値切られて売られたる馬庭先にみどりの糞を残して去れり

いちまいの葉書とどきぬ現実に凍土に〈われ〉を刻めとありぬ

一本の杭打ちたればびりびりと男の胸に突き刺さりくる

砕かれて宙にとびちる牛の糞おちてたちまち凍(しば)れつきたり

 

 北の大地に真向かうときの肉体感覚と、農に生きる地方に生きるという行為そのものへの思い入れが感じられる。二首目、顔の半分を濡らして水道の蛇口を咥える。夏の厳しい農作業ののちの光景の活写とも言えるが、細かく読んでゆくとそれだけではない。「半顔を濡らして」というが、本当は濡れた顔は自分では見られないはずだ。半顔を濡らしている(であろう)自分自身の行為を意識している自分というものがあり、ここでやや自己劇化が行われている(若干読者によるカメラワークを意識している)。それによって「地下水たちまち俺の血となる」から、単に水が喉の渇きを潤したということにとどまらず、こういう農に生きる生活を送っているという行為への作中主体の自負を読者は感じ取ることになる。地下水が「俺の血」となるのは、作中主体にとって誇りなのである。四首目などは、著者のマニュフェスト的な歌になるだろうか。行動が肉体感覚に通じ、幾分自己劇化されながら表現として一首が立ちあがってくる感じだ。行動の熱さと表現が表裏一体になっている所は『北方論』の特徴でもある。蛇足ながら同時代の歌壇における「内向の世代」「微視的観念の小世界」というようなキーワードと比較すると、時田の個性は際立つ。(後日追記、二首目「咥ふとき」は文法的には「咥ふるとき」になります。)

 

地境を貫きはしる排水溝夜更けの月を運びゆくなり

 

  一方でこの歌などは非常に繊細な感覚である。このような詩人としての感性は、随所に歌集の艶として表れている。

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