水の面を出でこし鴨の歩きやう彼の水掻きの色に感じのあり

                                  森岡貞香『帯紅』(2011年)

 

 内容としては、水を潜りぬけて来た鴨が歩いているというだけであり、ごく普通の日常を歌った歌であろう。特別な言葉や比喩が使われているわけでもない。しかしながら、読後には不思議な味わいが長く残る歌のように思う。

 上の句ではまず水を抜けて来た鴨が歩く様子が描かれる。「歩きやう」でいったん軽く切れるのであろう。後に何かが省略されたような、ちょっと不安定な言い方である。読者はここでちょっと宙ぶらりんな感覚になって、下の句へと読みを進めてゆく。下の句では、歩いている鴨の足に視点は移ってゆく。「水掻きの色に感じのあり」もどこか変則的な表現だ。水掻きの色に、ある感じがあったというのである。水掻きの色に、いわゆる「水掻き」という感じ、ある種の手触りのようなものを感じた。平たく言えば、水かきの色の感じが良かったということか。足の色や形状が描かれているわけではないが、「感じのあり」ひとことで、鴨の足がクローズアップされてリアルに脳裏に浮かぶ。あの独特の黄色が、ふっと再現されるのである。鴨の足を描写する上では「感じのあり」は情報としては不完全なのだけど、情報を超えた体感のようなものはむしろダイレクトに伝わってくる。

 文体としては上の句で鴨の歩む様子が描かれ、下の句でやや詳しく水掻きのことに言及してゆく。まず全体が提示されて、次に細部へと移るのである。英文法の言葉(?)を使うと、後置修飾ということになろうか。まず全体を把握し、そこから細部へという順序は私たちが物事を見たり把握したりするときにしばしば踏むプロセスではないだろうか。一見通りの悪い叙述の順序のような気もするが、それはわれわれの意識の流れを反映した文体とも言える。文体に不思議な味わいを感じる。

 

 『紅帯』は森岡貞香の最晩年(八〇代後半から死の直前まで)の歌を収めた歌集である。本歌集においても、読者は森岡の文体の力を堪能することになる。

 

ブナ落葉の褐色葉(かつしょくえふ)を掬ひつつ気持変はるかいま思ふことの

さざんくわの花はこの年も樹の下は掃きてあまれる赤き花殻

 

 「気持かはるかいま思ふことの」は、自分がいま思っていることの気持ちは変わるだろうかということだろう。物を思いながら、でもこの思いはことあとすぐにでも変わるかも知れないと感じているのである。「今」というオンタイムの気持ちと、少しあとの「今を相対化する気持ち」がないまぜになっている。複数の時間が強引に一つに纏められているようでもある。気持ちは揺れるが、この揺れは「感じ方のリアル」に近い。

 次の歌も面白い。さざんかの花とは、つづまり樹の下に掃かれて余っている赤い花柄こそが、その本質なのですよということであろう。たしかに、さざんかとは散っている所ばかりが目につく花である。しかし、それをこのような文体で歌った人はおそらくいない。この歌も後置修飾の文体である。さざんかの花が上の句で提示され、下の句では、その細部として,鮮やかに赤く散る花びらが出て来る。後から細部に言及してゆくとこで、一直線でない思考や時間の流れが一首の中に呼び込まれるのである。

 

 すでに、森岡の文体には多くの論者の指摘があるが、この最終歌集においてもその試行を見逃すことは出来ない。

 

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