春の風いま吹けよそよ、そよとなほこほりてとざすきまじめの顔へ

沢田英史『異客』(1999)

 

「春の風いま吹けよ」と高らかに始まる一首。「そよ、そよ」はいかにも春の風らしいし、「吹けよ」と「そよ」の脚韻も楽しい。が、読んでいて、何かひっかかる。二句目から三句目にかけて続く「いま吹けよそよ、/そよとなほ」というリズム(句跨り・句割れ・句跨り)は、風を呼んでいるにしては、妙にぎくしゃくしていないだろうか。

それもそのはず、語り手の心は、あくまでも生真面目に凍りついている。だからこそ、氷を溶かしてくれる暖かな風を、一心に願わずにはいられないのだ。

「春の風いま吹けよそよ、そよとなほこほりて」までが、ツイストの効いた序詞となって「きまじめの顔」になだれ込む展開が、面白くも切ない。

ちなみに一つ前には、

 

  家族との距離とりかねてそぞろ行く男ら寒し冬の公園

 

が置かれている。冬の公園には、不器用な男たちの生真面目な顔が、幾つも幾つも並んでいるのである。

 

  見上ぐれば硝子のビルの天井をあかり連なるたそがれの星座

  つかつかと窓によりゆきブラインドにてたちまちオフィスを縞馬にする

  鳥の声で受信しましたFAXにはネガヒツヅケヨキミノネガヒヲ

 

高層ビルやオフィス機器に囲まれた生活の閉塞感。しかし、沢田英史の歌は、そこを突破する一点を常に求め続けている。その突破口は、「星座」や、光が作る「縞馬」、「鳥の声」や「春の風」と、自然のなかに見出されることが多い。しかしそれは、雄大な山や海の風景ではなく、都市の片隅にかろうじて息づく自然の気配、のようなものばかりだ。

ビルの天井に散りばめられた人口の星座は、都市で生活していくしかない人々が抱く、密やかなロマンの象徴なのかもしれない。

 

(追記:20120224)昼ご飯を食べているときにふと思いついたのですが、「そよ、そよ」は、大弐三位の「ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」の「そよ」(=そうであることよ)とも遠く響き合っているのかもしれません(『異客』には万葉集など古典のパロディも出てくるので、百人一首にも入っているこの有名な歌を、作者が意識していた可能性は十分にあります)。もしそうであれば、「そよ、そよ」は、風のオノマトペ以上の強い感情が込められていることになります。「吹けよそよ、」の句跨りも、掛詞として捉えると、わりとしっくりきますね。

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